13.母性という名の重さ
その日から、トレーニングの内容が劇的な変化を見せた。これまでは、産後の筋力低下を補い、歪んだ骨格を矯正するための物理的なアプローチが中心だった。だが、この日のシルヴァンは、いつも手にしている負荷表を一度も開くことなく、静かにそれを閉じた。
「……今日は、筋肉を追い込む必要はありません。“整える”ことにのみ、心血を注ぎましょう」
「……整える? 鍛えないんですか……?」
明佳の声に、隠しきれない不安が滲んだ。彼女にとって「頑張ること」とは、何かに耐え、負荷をかけ、自分を削ることと同義だった。何もしない時間は、現実世界で自分を追い詰めていた「怠慢」という名の恐怖を呼び覚ます。
「鍛えていますよ、明佳さん」
シルヴァンは、揺るがない自信を湛えて微笑んだ。
「ただし、今日は目に見える筋肉ではありません。あなたの魂の所在……すなわち、自分を支えるための“軸”を鍛え直すのです」
床に敷かれた厚手のマット。シルヴァンに促されるまま、明佳はそこに仰向けになった。異世界の高い天井が視界を覆い、どこからか森の囁きのような静寂が流れ込んでくる。
「……出産という大事業を経て、その後の育児という戦いの中で、あなたの身体は絶えず“前に引っ張られ続けて”きました」
その言葉は、明佳の数年間の記憶を、一つの線で繋ぎ合わせた。
「……抱く、覗き込む、おむつを替える、授乳する……。常に視線は下を向き、腕は自分を守るためではなく、誰かを抱えるために差し出されてきた。……それは、生命を守るための究極の姿勢ですが、同時に自分を置き去りにする姿勢でもある」
「……守る姿勢……ですね……」
「ええ。母になると、女性の身体は本能的に、そして無意識に“自分を後回し”にするようにセットされます。自分を削ってでも、その小さな命を繋ぐために」
シルヴァンが、明佳の骨盤の位置を指先でごく軽く確認する。その接触は羽のように軽やかだったが、そこから伝わる理解の深さに、明佳の胸はきゅっと締め付けられた。
「……自分を後回しにするのは、……母親として、悪いことでしょうか?」
ずっと、誰かに聞きたかった問いだった。「自分の時間が欲しい」と願うたびに、「美味しいものをゆっくり食べたい」と思うたびに、背徳感に似た痛みが胸を走っていた。
「いいえ」
シルヴァンは、きっぱりと、断固として否定した。
「それは、人類が繋いできた中で最も美しく、誇るべき献身です。誰もあなたを責める資格などない」
その一言だけで、明佳の視界が急激に歪み始めた。ずっと欲しかった、全肯定の言葉。
「……ただ。誇り続けるためには、あなたという器が壊れてはいけない。器が壊れれば、中の愛も溢れ出してしまう。……今日は、母という役割の皮を一枚脱いで、“あなた自身を取り戻す”ための呼吸をしましょう」
指示されたのは、ただの呼吸だった。吸って、吐く。それだけのことが、今の明佳には驚くほど難しく感じられた。
「……浅いですね。肺の入り口だけで空気が止まっている」
「……すみません、私、昔から要領が悪くて……」
「謝らない」
シルヴァンの低い声が、ピシャリと空間を制した。
「あなたは、無意識に“息を止める癖”がついている。過酷な状況下で、感情を押し殺し、痛みに耐えるために身につけた、防衛本能です」
その言葉に、明佳は心臓を指で突かれたような衝撃を受けた。
(……確かに、そうかもしれない)
子供が泣き止まないとき。夫から心ない言葉を投げられたとき。限界まで疲れているのに、まだやらなければならない家事が積み上がっているとき。彼女はいつも、息を止めていた。酸素を取り込むことさえ贅沢であるかのように、自分を閉ざして、嵐が過ぎ去るのを待っていたのだ。
「……母親は、泣いていられない。自分が止まったら、この子の命が止まってしまう。そう、思っていませんか?」
「……思って……います。ずっと、そう思って走ってきました……」
「では、今日は泣いてください。ここでは息を止めなくていい。声を押し殺さなくていい」
シルヴァンはそう言うと、彼女のプライバシーを守るように、静かに視線を窓の外へと逸らした。
「あなたが、人として、そして母として壊れないために。ここで、すべての毒を吐き出しなさい」
堰を切ったように、涙が溢れ出した。それは悲しみというよりも、長年溜め込んできた「緊張」の溶解だった。
「……私、ちゃんと出来てますか……。お母さんとして、あの子に恥ずかしくない自分でいられてますか……」
声が、幼い子供のように震える。
「あの子は、私のことを嫌いになってないでしょうか。イライラして、余裕がなくて、いつも疲れ果てている私を……。ちゃんと、私を母親だと……」
言葉にならない不安。現実世界で、鏡を見るたびに自分を呪っていた想いが、すべて言葉となって溢れ出す。シルヴァンは、一定の距離を保ったまま、けれど温かな光のような気配で、はっきりと言った。
「あなたは、十分すぎるほどやっています。その歪んだ身体が、何よりの証拠だ。あの子にとって、あなたの腕こそがこの世で一番安全な場所である事実に、疑いの余地はありません」
「……胸が、熱くて……」
「母性という名の感情は、この世で最も尊く、そして……最も重い」
シルヴァンの言葉が、明佳の魂の深層に沈み込んでいく。
「重いからこそ、一人で背負いきれるものではない。重力に負けそうになったときは、こうして大地に身を預け、呼吸を取り戻せばいい。母である前に、あなたは一人の、守られるべき生命なのだから」
その日のトレーニングは、結局、激しい涙と深い呼吸だけで終わった。一度も重い負荷を上げなかった。一度も激しい動きをしなかった。それなのに、マットから立ち上がった明佳の身体は、まるで憑き物が落ちたように軽かった。
夜、異世界の静かなベッドに横たわりながら、明佳は自分の指先をじっと見つめた。少しずつ、感覚が戻ってきている。「母」としての自分。「妻」としての、まだ思い出せない苦い影。そして、その奥底に眠っていた「明佳」という名の、一人の女性。
(……母で。妻で。……それでも……。……私は、私として、ここに存在していい。呼吸をしていい。泣いてもいいんだ……)
シルヴァンが与えてくれたのは、痩せるための知識ではなく、自分を許すための許可証だった。その想いが、柔らかな灯火となって胸に残ったまま、彼女はゆっくりと深い眠りに落ちていった。
明日、目が覚めたとき。鏡の中の自分を、もう少しだけ好きになれる予感がしていた。異世界の空には、今日も、現実のどんな星よりも輝く月が浮かんでいた。明佳の再生は、もう誰にも止めることのできない最終段階へと入っていた。




