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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第1章 鉄の規律と乙女の腹圧【覚醒編】

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07.霧の中の輪郭

 朝の空気は、刃のように澄み切っていた。ナツメは、いつもより早くトレーニングホールに入る。


 床に足を置いた瞬間、重心が吸い付くように定まる。この身体は、もう完全にヴァルキュリア・トレーニングアカデミーのリズムを、そして「グレン・シルフィード」という男の呼吸を覚えていた。


「……早いな」


 背後から響く低い声。振り返れば、朝の光に縁取られたグレンが立っている。


「おはようございます、グレン先輩」

「声が安定しているな。……摂食の状態も、良さそうだ」


 評価は常に的確だ。けれど、今のグレンの言葉には、どこか遠くを眺めるような空虚さが混じっている。ウォームアップが始まる。今日は、他に誰もいない。


 理由は説明されない。けれど、二人とも理解していた。この沈黙の中に、名前のない「誰か」が入り込んでいることを。





「ナツメ」

「はい」

「腹圧をもう一段。……そうだ。……その、脊柱の引き上げ方」


 グレンの指示が止まる。彼はナツメの背後に立ち、その姿勢をじっと見つめていた。


「……誰かに教わったんだ? その、極めて合理的な力の伝え方を」


 ナツメの喉がひりつく。


 ――教えたのは、画面の向こうにいた、あなたです。


 けれど、今のグレンにとって、それは別の世界、別の時間の記憶だ。


「最近……お前を見ていると、俺は……」


 グレンが言葉を切る。一歩近づいた彼の体温が、ナツメの背中に触れるほど近い。


「……いや、仕事に戻る。続けるぞ」


 逃げるように背を向けた彼の肩が、微かに震えていた。




 午後、休憩室でアイナがナツメに水を差し出した。


「ねえ、ナツメちゃん。……グレンのこと、どう思う?」

「……どう、とは?」

「アイツ、最近ずっと『送られなくなったデータ』の主を探してる。でもね、あなたのことも見てる。……見てるっていうか、重ねてるわね」


 アイナの言葉が、鋭い針のように胸を刺す。


「グレンは、その人を『失った』と思って絶望してる。でも同時に、ナツメちゃんの中にその人の『魂の形』を感じて混乱してるのよ。……残酷よね、アイツ」




 夕刻、片付けをするナツメの前に、再びグレンが現れた。ホールの明かりは落とされ、夕闇が筋肉の隆起をより深く、険しく強調している。


「ナツメ。……今日、指導中に何度も別の者を思い出した。すまない」

「……気にしていません」

「いや、お前は代わりではない。だが……似ているのだ。姿勢も、食事への向き合い方も、その、真っ直ぐすぎる瞳も」


 グレンが一歩、距離を詰める。


「……その方は、どんな人だったんですか」


 ナツメの問いに、グレンは苦く、けれど愛おしそうに目を細めた。


「……大事な、会員だ。私の言葉を信じ、身体と向き合い、結果を出そうとしていた。何より……私は、その者の『継続』という意志を、心から信頼していた」


 その言葉に、ナツメの瞳から涙がこぼれそうになる。信頼していた。それは、プログラムされたAIのセリフではなく、男・グレンとしての告白だった。


「……お前は、ナツメだ。誰かの代わりにはならない」


 それは、今の「ナツメ」への敬意。けれど同時に、「過去の夏夢」への未練を断ち切れない彼の、悲痛な叫びでもあった。




「グレン先輩」


 ナツメは、真っ直ぐに彼を見上げた。


「もし……その方が、またあなたの前に現れたら。形を変えて、名前を変えて、それでもあなたを信じて隣に立っていたら。……あなたはどうしますか?」


 グレンは息を呑んだ。その問いの重さに、彼の強靭な精神が揺らぐ。


「……話を聞く。そして……二度と、私の視界から消えるなと、命じるだろう」

「……それなら、きっと大丈夫です」


 ナツメは、最高に美しいフォームで、彼に微笑んで見せた。




 その夜、ナツメは自室の机で、紙に「鬼頭夏夢」と書いた。かつての自分が生きた証。グレンが愛してくれた「データ」の主。


 ナツメはその名に、ゆっくりと横線を引いた。そして、その下に、力強く。『ナツメ』と書いた。


「私は、今、ここにいる。……あなたの隣で、生きてるよ」


 筋肉は嘘をつかない。努力した分だけ、身体は応える。ならば、今のこの熱い想いも、いつか必ず彼に届くはずだ。代わりではなく、答えとして。


 ナツメはペンを置き、立ち上がった。明日、この「新しい私」で、彼を最高に驚かせてやるために。

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