12.妻だった誰かの影
夢を見るようになった。それは、かつての穏やかな微睡みとは程遠い、鋭い破片のような記憶の羅列だった。風景はセピア色に霞み、登場人物の顔には深く濃い霧がかかっている。けれど、そこから発せられる「声」だけが、鼓膜を直接針で刺すように、やけに鮮明に響くのだ。
───うわ、太ったな。
───いいじゃん、母親なんだから仕方ないだろ。
───ていうか、もう女でいる必要、あるのか? 家にいるだけなんだし。
目覚めるたびに、心臓が早鐘を打ち、胸の奥がざらりと音を立てて削られるような感覚に襲われる。
(……誰……? 誰なの、今の声は……)
かつての自分を透明な存在へと追いやり、鏡を見るたびに絶望させた主。その声音は、憎しみを感じる一方で、細胞の奥底が「知っている」と叫ぶほどに、妙に懐かしく、そして悍ましく馴染んでいた。
「……また、眠れませんでしたか」
朝のトレーニング。まだ静まり返った室内で、シルヴァンは明佳の顔を一目見ただけで、すべてを察したように言った。彼の黄金色の瞳は、隠し事など許さないほどに透徹している。
「……はい……」
明佳は正直に、力なく頷いた。
「……夢を、見るんです。最近、ずっと。顔も思い出せない誰かが、私のすぐ耳元で揶揄ってくるんです。産後の体型のこと、私がもう女性として終わってしまったこと……。それを、当たり前の事実みたいに、冷たい声で……」
言葉にするだけで、指先が微かに震える。記憶の蓋が開くたびに、かつて受けた言葉の暴力が、鮮度の高い痛みとなって蘇ってくる。
シルヴァンはしばらく沈黙を守っていた。彼は不用意に慰めることも、安易に同情することもしない。ただ、明佳がその苦しみと対峙し、自分の言葉で整理するのを待っていた。
「……その言葉に、あなたの心はどう反応しましたか」
「……傷付きました」
即答だった。
「……悔しくて、悲しくて、自分が惨めでした。……でも」
明佳は、自分の胸───シルヴァンの指導によって、確かに引き締まり、芯の通ったそこ――に強く手を当てた。
「……前ほど、潰されなかった。……『何言ってるの、私はこんなに頑張っているのに』って、心のどこかで、言い返している自分がいたんです。それに、自分自身が一番驚いています」
その言葉を聞いた瞬間、シルヴァンはわずかに目を細め、慈しむような笑みを浮かべた。
「……それが、目に見えない“変化”の証です。以前の、軸を失っていたあなたなら、その呪いの言葉に飲み込まれ、何日も暗闇に沈んでいたでしょう。ですが今のあなたは、自分を支える力を、すでに持っている」
そう言われて、明佳ははっとした。確かにそうだ。以前の自分なら、その声を「真実」だと思い込み、自分を責める材料にしていた。けれど今は、その声を「ノイズ」だと切り捨てようとしている。
「……今日は、その卑屈な声を完全に追い出すために、反対の言葉を聞いてください」
シルヴァンは一歩踏み出し、真っ直ぐ、明佳の瞳を見据えた。
「あなたは、十分に美しい。この世界に存在するだけで価値がある。あなたは、よくやっています。誰よりも誠実に、自分と、大切な命と向き合ってきた。……あなたは、誰かの無知な言葉によって価値を測られるような、安い存在ではない」
一つ一つの言葉が、重みを伴って明佳の耳から心へと流れ込んでくる。夢の中の冷酷な残響を、温かな、それでいて力強い言霊が上書きしていく。
「……昔……」
不意に、胸の奥が震えた。
「……こんな風に、言われたことが……ある気がします。まだ、あの子を産む前。まだ、私が私自身でいられた頃……。あんな冷たい声じゃなくて、もっと、私を大切にしてくれていた人の声……」
言葉にした瞬間、脳裏の霧がわずかに晴れ、柔らかな光が瞬いた。
(あ……。あの人も、昔は私を、こうして見てくれていたはずなのに。いつから、あんな声に変わってしまったんだろう……)
「……それは、記憶が正常に動き始めている証拠です。あなたが受けた愛も、受けた傷も、すべてが統合されようとしている」
「……怖いです。思い出したら、私、どうなってしまうんでしょう。その人が私を壊した張本人だと知ってしまったら……。私、まともにあっちの世界で生きていけるんでしょうか」
「……何も変わりません」
シルヴァンの断言は、無機質なほどに力強かった。
「すべてを思い出しても、あなたは、あなたです。ここで鍛えた身体も、ここで取り戻した自尊心も、誰も奪うことはできない。記憶は単なるデータに過ぎませんが、今ここにあるあなたの強さは、あなた自身の血肉なのですから」
その断言が、崩れそうな明佳の心を支える最後の支柱になった。だが、シルヴァンは少しだけ声を落とし、残酷な現実を突きつける。
「ただ。思い出すことで、あなたが選ばなければならないことは増えます。現実に戻ったとき、かつての不当な扱いに甘んじるのか、それとも、新しいあなたとして戦うのか。……その選択は、記憶がなければ選ぶことさえできないものです」
明佳は、唇を強く噛みしめた。
(颯眞……)
いまだに帰る術は見つからない。けれど、腕の中に伝わるあの柔らかな重み、ミルクの甘い匂い、自分を求める小さな指の感触───それだけは、魂に刻まれている。
「……私は、帰りたいです。あの子を抱き締めたい。今度は、自分を削りながらじゃなくて、この新しい軸で、あの子をしっかり支えたい。……あの子に、笑っているお母さんを見せたいんです」
涙が、頬を伝って床に落ちた。シルヴァンはそっと、触れない程度の距離を保ったまま、静かに、けれど慈愛を込めて言った。
「……ええ。それで、いい。帰りたさと向き合うことは、弱さではありません。逃げ場としてのここを捨て、戦場へと戻る決意……それは、究極の勇気です」
その言葉が、明佳の胸の痛みを静めていく。
「あなたは母であり、女性であり、そして何より、一人の気高い人間です。そのすべてを、誰にも、何ものにも、否定させてはいけない」
シルヴァンの声音には、彼をこの場所に留めておこうとするエゴが、欠片も含まれていなかった。
(……この人が、私を引き留めようとしない理由……)
明佳は涙を拭いながら、ようやく理解した。彼は「理想」として彼女を甘やかすために存在するのではない。
彼女が「現実」という荒野で自分の足で立つために、必要な翼を与えるために存在しているのだ。この人は、私に“選ばせてくれる”人なのだ。誰かの所有物でも、役割の奴隷でもない、自立した一人の人間としての道。
明佳は、澄んだ瞳でシルヴァンを見つめ返した。その視線の先には、もう、得体の知れない夢の影に怯える「妻」の姿はなかった。そこにあるのは、自らの人生を取り戻そうとする、一人の女性の揺るぎない覚悟だけだった。




