11.母としての軸、女性としての輪郭
朝の身支度が、劇的に、それでいて密やかに楽になっていた。重い鉄板が入っているようだった肩が、今朝は羽が生えたように軽い。髪を後ろで一つにまとめる際、以前なら二の腕のダルさに溜息をついていたはずが、今は背中の中心から力が指先まで真っ直ぐに伝わる感覚がある。
鏡の前で、無理に力を入れることもなく、無意識にスッと背筋が伸びている自分に気づき、明佳は小さく、けれど深い息を吐き出した。
(……昨日までの私なら、こんな風に立つことさえ「仕事」みたいに辛かったのに……)
異世界での生活という、現実から切り離された時間の経過が、彼女の中にわずかな、けれど確かな「日常」というリズムを刻み始めていた。トレーニングルームの重厚な扉を開けると、そこには数人の異世界の住人───シルヴァンが管理するこの場所の「会員」たちが、それぞれのワークに励んでいた。彼らは皆、無駄のない動きと澄んだ瞳を持っている。
「おはようございます」
自然と口から出た挨拶に、近くにいた女性が驚いたように目を瞬かせ、作業を止めてこちらを振り返った。
「……おはよう。……あなた、数日前とはまるで見違えたわね」
明佳は、きょとんとして足を止めた。
「え……? そうでしょうか」
「ええ。なんていうか、以前は壊れ物を扱うように自分を抱えていたけれど……今はとても柔らかくなった。それでいて、揺るぎない『芯』が見える気がするわ」
「芯……」
その言葉が、胸の奥に心地よい波紋を広げる。それは、産後の荒波の中で、最も早く、そして最も無惨に失ってしまったと思っていたものだった。自分を支えるための軸。誰かのためではなく、自分のために存在するための根拠。
シルヴァンが、トレーニングルームの奥からゆっくりと歩み寄ってくる。今日の彼は、いつにも増して峻烈な、それでいて春の陽光のような穏やかさを纏っていた。
「おはようございます、明佳さん。……準備はいいですか。今日は、立位での動きをさらに深めます」
シルヴァンの声が、場の空気をピリリと引き締める。明佳は頷き、彼の正面に立った。
「今のあなたなら、同時に扱えるはずです。母として必要な『圧倒的な安定』と、一人の女性としての『しなやかな輪郭』を」
その言葉を聞いた瞬間、明佳の喉が小さく鳴った。“女性としての輪郭”。
それは、産後の現実世界において、最も口にするのが憚られる「禁忌」のような言葉だった。母親が自分の美しさやしなやかさを意識することは、どこか子供への愛情を削っているような、自分勝手な振る舞いであると、誰に教わるともなく刷り込まれてきたからだ。
「……出来るでしょうか。私には、まだ『母親』であるだけで精一杯で……」
「出来ます」
シルヴァンは、一歩も引かずに断言した。
「母性と女性性は、相反するものではありません。むしろ、母としての強固な土台があってこそ、女性としての真のしなやかさが宿る。あなたの身体は、すでにその統合に向けて反応を始めています」
最初のワークは、骨盤を起点にした緩やかな回旋運動だった。ただ回すのではない。足裏で大地を掴み、そのエネルギーを背骨を通して頭頂まで逃がしていく。
「……あ……」
身体を揺らすうちに、明佳は身体の深部でパズルのピースがカチリと噛み合うような、不思議な既視感を覚えた。
「……これ。颯眞を抱っこして、寝かしつける時に……。無意識にやっていた動きと、同じ……」
「ええ、その通りです」
シルヴァンは、満足げに頷く。
「あなたの身体は、あの子を慈しみ、守り、揺らしてきた『母としての記憶』を、一瞬たりとも失ってはいません。筋肉の一つひとつ、細胞の一つひとつに、愛の記憶が刻まれている」
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられた。
「……でも、私は、あの子の顔さえ思い出せなくなる時があって。忘れてしまっているのが、怖くて……」
「忘れているのは、思考の表層にある言葉や映像だけです」
彼は歩み寄り、明佳の動く身体に、そっと意識を向けるように促す。
「言葉で説明できなくても、あなたの腕は抱き方を覚えている。あなたの腰は、重みを逃がす術を知っている。身体と感情は、今この瞬間も、あなたの中で脈打っています」
動きを重ねるごとに、明佳の背中は見違えるように伸び、視線は自然と前方───まだ見ぬ未来───へと向いていく。
「……立ってる。私、ちゃんと真っ直ぐ立ってる……」
明佳は、ぽつりと呟いた。
「誰かを守るために屈むんじゃなくて……。あの子を抱いたまま、一緒に前を向くために。……これが、私の『軸』なんだ」
「そうです。それが『母としての軸』。そして、その軸が安定した今、ようやく現れてきたのが、あなたという一人の個の魅力……『女性としての輪郭』です」
明佳は、無意識に自分の腹部に手を当てた。妊娠線が刻まれ、皮下脂肪がつき、かつて自分が最も“嫌い”で、鏡を見るたびに目を背けていた場所。けれど今は、そこが自分の生命を支え、かつて一つの命を育んだ、誇り高い「聖域」であると感じられる。
「……私、母でいることに、あまりにも必死すぎたのかもしれません」
動きが終わり、静かに息を整えながら、明佳は絞り出すように口を開いた。
「女性であることを意識することは、母親失格だと思っていました。綺麗になりたい、自分の身体を愛したいと思うたびに、どこかで颯眞に申し訳ない気がして。……だから、自分を殺して、輪郭を消して……」
「それは、罪ではありません。あなたが誠実であったという証拠です。役割に没頭し、自分を捧げた結果なのですから」
シルヴァンの声は、どこまでも澄み渡り、彼女の過去のすべてを肯定していく。
「……でも。今、シルヴァンさんとトレーニングをしていると……。少しだけ、思い出してしまったんです。……誰かに見つめられ、一人の人間として大切にされることの喜びを」
“女性としての自分”。その自覚が、目の前に立つシルヴァンの存在と、どうしようもなく重なり合ってしまう。彼の黄金色の瞳に見守られ、その温かな言葉に包まれるたび、彼女の心の中に、現実世界では枯れ果てていた「恋」にも似た、甘く危険な揺らぎが芽生えていた。
(……だめ。私は、帰らなきゃいけない。こんな風に、彼に心を預けてしまったら、私はまた、誰かの色に染められるだけの存在に戻ってしまう……)
明佳は、自分の心の弱さを曝け出すように、縋るような瞳でシルヴァンを見つめた。
「……揺れるのは、いけないことでしょうか。先生に、あなたに、依存してしまいそうになるのは……悪い兆しですか……?」
シルヴァンは、一瞬だけ、思考の海に沈むように視線を窓の外の青空へと逸らした。そして、これまでにないほど強く、真っ直ぐに明佳を見据えて言った。
「いいえ。それは、あなたが死んでいた『人としての感情』を取り戻し、完全な人間へと戻り始めている証拠です。喜ぶべき変化ですよ」
その言葉に、胸がすっと軽くなる。
「ただし。明佳さん、これだけは忘れないでください。その揺れを、決して僕に預けてはいけない」
「……」
「その揺れさえも自分の一部として抱え、自分自身の足で立ち続ける。それが、このトレーニングの最終目標です。僕はあなたの鏡に過ぎない。あなたが僕に感じている好意や信頼は、すべて、あなた自身の中に眠っていた『自分を愛する力』が投影されたものなのですから」
その、あまりにも冷徹で、あまりにも慈悲深い線引き。それが、明佳にはありがたくて、そしてどうしようもなく、切なかった。トレーニングが終わった後、明佳は一人、鏡の前に立った。
昨日と、物理的には何も変わっていないはずの姿。まだ腹部は少し膨らみ、肌の質感も、二十代の頃のそれとは違う。けれど───鏡の中の自分を見つめる「目」が、決定的に違っていた。
(……私……。……母であり、そして同時に、一人の女性として、ちゃんとここにいる。誰にも奪わせない、私の輪郭……)
その輪郭は、まだ生まれたての産声のように曖昧で、脆いかもしれない。けれど、それは確かに、異世界の光の中で鮮やかに輝き始めていた。現実世界で待つ「何か」に立ち向かうための、最強の鎧として。




