09.思い出せない棘
鏡張りのトレーニングルーム。異世界の柔らかな光が差し込むその場所は、明佳にとって、自分自身の身体と静かに対話するための聖域だった。シルヴァンの指導のもと、明佳はゆっくりとスクワットの姿勢をとっていた。かつてはただ苦痛でしかなかったこの動作も、今は自分の足裏が地面を押し、骨盤が安定し、インナーマッスルが脊柱を支える「実感」を伴う喜びへと変わっている。
「吸って……吐いて。自分の中心にある一本の芯を、光が通っていくイメージで」
シルヴァンの穏やかな声。それに合わせて、明佳が深く息を吐き出そうとした、その時だった。
「……っ」
唐突に、耳の奥に冷たい「ノイズ」が走った。それは、物理的な音ではない。記憶の断片というにはあまりに鋭く、毒を塗った針のように、明佳の意識の最も柔らかい部分を正確に抉ってきた。
───まだ戻らないの?
───産後太り、いつまで言い訳にするつもり?
誰の声か、分からない。顔も、名前も、背景にあるはずの部屋の景色さえも、霧に包まれて思い出せない。けれど。
(痛い……)
身体が、その言葉を「知っている」と激しく反応してしまった。反射的に肩が上がり、整っていたはずの呼吸が喉元でつかえる。腹部の芯がふにゃりと抜け、膝がわずかに震えた。
「……呼吸が、浅くなっています」
すぐ隣で、シルヴァンの声がした。いつもなら、その声を聞けばすぐにリセットできるはずだった。だが、一度溢れ出した「声」は止まらない。
───昔は、もっと綺麗だったのに。
───自分のこと、気にしなくなったよな。結婚って、こういうことか。
(やめて……聞きたくない。私は、私は───)
心の中で叫ぶが、姿の見えない「誰か」の嘲笑は、脳内のスクリーンに冷たい文字を刻み続ける。明佳の視界がぐらりと歪み、鏡に映る自分の姿が、再びあの日の「ボロボロな母親」に見えてくる。
「明佳」
シルヴァンが、これまでにない強さで彼女の名前を呼んだ。それは、深い闇に落ちかけていた彼女の意識を、力ずくで現実へと繋ぎ止めるための楔だった。
「今すぐ、動きを止めましょう。リセットです」
彼の手が、二人の間の空間を制するように上がる。それだけで、部屋を支配していた不穏な空気が一変した。明佳はその場にへたり込み、荒い息を繰り返した。冷や汗がこめかみを伝う。
「……分からないんです……」
絞り出すような声。
「……誰かが、私のことを責めてくる。……その人は、私の一番見たくないところを知っていて、そこをずっと笑っているんです。……思い出せないのに、その言葉だけが、胸に刺さって抜けない……!」
「……ええ。分かります」
シルヴァンは否定せず、彼女の目線に合わせてその場に膝をついた。無理に触れることはしない。ただ、逃げ場のないほどに温かな視線で、彼女を真っ直ぐに捉える。
「ですが、明佳さん。一つだけ覚えておいてください。その耳障りな言葉は、あなたの真実ではありません。それは、投げた側のエゴであり、身勝手な不満の残骸に過ぎない」
「……でも、すごく、傷つくんです。あの言葉を聞くと、自分が価値のない人間に思えて……。努力しても、無駄なんじゃないかって……」
「それは当然です。なぜなら、その言葉はあなたが“一番弱っていた時期”に、信じていた人間から投げられたものだから」
胸が、きゅっと音を立てて縮んだ。『信じていた人間』。そのキーワードが脳裏を掠めた瞬間、記憶の深淵から、かつて自分に向けられた「温かい言葉」が、泡のように浮かんできた。
───無理しなくていいよ。
───明佳は、よくやってる。俺は見てるから。
(あ……)
顔は、やはり思い出せない。けれど、かつて自分を「否定した棘」よりも先に、自分を「守ろうとした盾」のような言葉をくれた人が、確かにいたのだ。それは、今目の前にいるシルヴァンのように。あるいは、変わってしまう前の「誰か」のように。
「……思い出せないのに……懐かしい……」
明佳の目から、大粒の涙が溢れ出した。それは悲しみの涙ではなく、身体の奥底で凍りついていた何かが溶け出した結果の、浄化の滴だった。シルヴァンは、彼女が泣き止むのを静かに待っていた。
「それでいいんです。記憶というものは、常に感情より遅れて戻ります。身体が先に、その温かさを思い出した。それは、あなたが自分自身を取り戻すための、もっとも強固なプロセスです」
「……思い出しても……いいんでしょうか。あの痛い言葉も、いつか全部……」
「ええ。今のあなたなら、もう大丈夫です。あの言葉は、かつてのあなたを縛る鎖でしたが、今のあなたにとっては、自分がどれほど耐えてきたかを知るための勲章になります。……あなたは、怠けていなかった。あなたは、逃げていなかった。……あなたは、今日まで大切なものを守り抜いてきた。……そうでしょう?」
その言葉が、耳の奥に残っていた「棘」を一つずつ抜き取っていく。
(……私、ちゃんと頑張ってた。あんなに言われても、あの子を離さなかった)
明佳は、涙を拭い、深く息を吸い込んだ。次に吐き出した空気は、さっきまでの濁りを含まない、驚くほど透明なものだった。
「……シルヴァンさん、これって……良い兆しなんですか?」
「ええ。最高に良い兆しです。過去の自分を憐れむのではなく、過去の自分に寄り添えるようになった。それは、心が真の意味で『自立』し始めた証拠ですから」
彼は立ち上がり、彼女に手を差し出した。明佳はその手を借りず、自分の足腰の力だけで、すっ、と立ち上がった。
“誰か”の棘は、確かに痛かった。けれど、それを上書きし、癒してくれる言葉が、今、ここにある。そして、その言葉を選び取り、自分に刻み込んでいるのは、他ならぬ自分自身なのだ。
(私は、もう負けない。……たとえ、あの世界に戻っても)
明佳の瞳には、かつての怯えはなかった。異世界の窓から差し込む光を受け、彼女は再び、鏡の中の自分を見据える。そこには、一歩ずつ着実に「自分自身」へと還っていく、気高く、美しい一人の女性の姿があった。




