07.母としての本能
朝の空気は、肺の奥まで洗われるようなほどに澄み切っていた。窓の外に広がる異世界の空は、相変わらず現実味がないほどに深い青色を湛えている。かつての明佳なら、その美しさにさえ「自分にはふさわしくない」と罪悪感を抱いただろう。だが、今はもう「ここが夢だ」とは思わなかった。
(……夢なら、こんなに身体が痛くならない)
ゆっくりとシーツを払い、上体を起こす。腹部、背中、そして太腿の裏側。昨日までのワークで刺激された筋肉が、心地よい微熱を伴う「痛み」として存在を主張していた。それは、現実世界で感じていた「疲労による重だるさ」とは決定的に違っていた。
自分の意志で動かし、自分の意志で整えた結果としての、瑞々しい痛み。明佳はそっと、まだ少し柔らかすぎる下腹部に手を当てた。
「……ちゃんと……私の身体だ……」
その呟きは、誰に聞かせるためでもない、自分自身への承認だった。昨日よりも、ほんの少しだけ指先に伝わる感覚が鮮明になっている。皮下脂肪の奥にある、自分を支えるための細い芯。それが、確かにそこにある。その事実に、胸の奥で小さな、けれど消えない誇らしさが灯った。
部屋の扉を開けると、廊下にはすでに、朝の光を纏ったシルヴァンが立っていた。彼はまるで、彼女が目覚める瞬間を正確に予見していたかのように、穏やかな微笑みを湛えている。
「おはようございます。顔色が一段と良くなりましたね」
「……おはようございます……。自分でも驚いています。身体が、昨日の感覚を覚えているみたいで」
以前よりも、声に張りがある。肺の底からしっかりと空気が押し出されている実感。シルヴァンはその変化を、慈しむような眼差しで見逃さなかった。
「ええ、その通りです。あなたの身体は、あなたが思うよりもずっと、賢くて勇敢だ。……今朝は、いよいよ『立って』出来るワークを行いましょう」
「……立って……、ですか?」
一瞬、不安が脳裏をかすめる。産後、立っているだけで腰が砕けそうになり、逃げるように椅子を探していたあの日々の記憶。重力というものが、自分を押し潰そうとする悪意にさえ感じられた、あの絶望。
「大丈夫です。僕がすぐ傍にいます」
シルヴァンは、明佳の動揺を包み込むように言葉を添えた。
「今日は、特別な動きはしません。あなたがこれまで、何千回、何万回と繰り返してきた……『抱っこする時の姿勢』を、少しだけ思い出す。それだけです」
その言葉に、明佳の喉が、きゅっと熱い音を立てて鳴った。
「……颯眞を……、抱く時の……?」
「ええ。あなたの身体は、あの子を重荷だとは決して思っていなかった。むしろ、あの子の重みを支えるために、あなたの全身は驚くほど精緻な連動を見せていたはずです。その“母としての記憶”を、今度は自分を支えるために呼び覚ましましょう」
明佳は、震える脚に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。足裏が、木の床の温かな質感を捉える。以前はバラバラに感じられた足首、膝、股関節。それらが、シルヴァンの言葉という魔法によって、ひとつの鎖のように繋がり始める。
「……怖いです……。立ってしまうと、自分がまだ何もできていないことが、はっきり分かってしまいそうで……」
「それでいいんです。恐怖は、身体を守るための繊細なアンテナ、つまり『慎重さ』に変わります」
シルヴァンは、彼女のパーソナルスペースを侵さない絶妙な距離を保ちながら、静かに導く。
「……颯眞を初めて抱いたときも……、怖かった」
声が、自然と溢れ出した。
「落としたらどうしようって、こんなに小さくて壊れそうな命を、私なんかが支えられるわけないって……。手も足も震えて、呼吸の仕方も忘れるくらい、怖かったんです……」
「ええ。その震えこそが、愛の重さですね」
「でも……、あの子を腕の中に収めた瞬間……、不思議と腹の底が座ったんです。私が守らなきゃいけないんだって。そう思った瞬間に、震えが止まって……」
明佳は、深く、深く息を吸い込んだ。肩の力を抜き、重心をわずかに落とす。かつて、一歳になったばかりの息子を抱き上げた時の、あの特有の「重みの記憶」を再現するように。
その瞬間───。逃げ腰になっていた骨盤が、ぐっと本来の位置に戻り、背筋が天に向かって真っ直ぐに伸びた。腹部のインナーマッスルが、目覚めた獣のように静かに、けれど強固に彼女の背骨を支え始める。
「……あ……っ」
「今です。明佳さん。それが、あなたの本当の“軸”だ」
シルヴァンの声が、彼女の覚醒を祝うように重なる。明佳は、視界が涙で滲むのを堪えた。
「……私……、ちゃんと……母なんですね……。ボロボロになっても、逃げ出しても……、私の身体は、あの子を抱くための力を、捨てていなかった……」
「ええ。あなたは完璧な母だ。そして同時に、母である前に、かけがえのない一人の人間であることを忘れないでください。その軸は、誰かのためだけにあるのではなく、あなた自身がこの世界で誇り高く立つためのものなのですから」
ワークを終えた後、明佳は椅子に深く腰掛け、しばらくの間、自分の身体の内側から湧き上がる余韻を味わっていた。立ち上がることが、これほどまでに清々しい「勝利」のように感じられる日が来るとは、思いもしなかった。
「……シルヴァンさん」
「はい、何でしょう」
「……私、やっぱり帰りたいです」
それは、泣き喚きながら訴えた「帰りたさ」とは、全く別の色を帯びていた。執着や依存、あるいは責任感という名の鎖ではない。
「……でも、今すぐじゃなくていい。あんなに焦っていたのが、今は不思議なくらいです。……颯眞のもとへ帰るなら、今のボロボロの私じゃなくて、ちゃんと自分を支えられるようになった私で帰りたい。胸を張って、あの子をもう一度抱きしめられる強さを取り戻してから、帰りたいんです」
シルヴァンは、しばらくの間、彼女の言葉の重みを計るように沈黙していた。そして、かつてないほど深く、力強く頷いた。
「それが、あなたの魂が選んだ道ですね」
「……はい。顔も思い出せない誰かに、また何かを言われるかもしれない。でも、その時、私はもう、笑って誤魔化したりしない気がします」
「なら」
シルヴァンは、椅子から立ち上がり、窓の外の景色へと視線を向けた。
「ここでの生活は、もはや迷い子の『遭難』ではありません。それは、あなたが次のステージへ進むための、誇り高き『滞在』です」
「……滞在……」
「そうです。現実からの逃避でも、母親としての役割の放棄でもない。あなたは、戦いに備えて武器を研ぎ、盾を直す騎士のように、ここで自分を整えている。その時間は、あなたの人生において最も建設的な休息となるでしょう」
その言葉に、明佳は心から救われた気がした。自分を甘やかしているのではない。自分を立て直すことが、結果として、颯眞をより深く愛することに繋がるのだ。
「……ありがとうございます、シルヴァンさん。あなたにそう言ってもらえると、自分の選択を信じられます」
シルヴァンは、ほんの一瞬だけ、感情の揺らぎを見せるように視線を逸らした。
「……感謝されることではありません。僕は、あなたの潜在意識が生み出した案内人に過ぎないのですから」
「それでも、あなたは私にとって、最高の先生です」
「……僕は、あなたが“戻る日”を前提に、ここにいます。あなたが自立し、僕を必要としなくなるその日まで。……それが、僕の存在意義ですから」
その言葉に含まれた微かな寂しさに、明佳は気づかないふりをした。彼との距離感が、今はあまりにもありがたく、そして同時に、胸の片隅を少しだけ切なく締めつけた。
その夜。明佳は、異世界の月光が降り注ぐベッドに横たわり、自分の腹部にそっと手を当てた。
かつての、暗い寝室で感じていた孤独な夜とは違う。今の彼女には、自分の身体という最強の味方がいた。そして、隣の部屋には、自分を肯定し続けてくれるシルヴァンがいる。
(……颯眞。お母さんね、今、頑張ってるよ)
暗闇に向かって、心の中で名前を呼ぶ。
(……昔みたいに、無理をして壊れるんじゃなくて、ちゃんと、自分を好きになれるように。あの子を抱きしめた時に、私の腕が震えないように。……お母さん、ここで、ちゃんとやり直してから戻るからね)
涙は、出なかった。代わりに、胸の奥には、ダイヤモンドのように硬く透明な決意が宿っていた。かつて、鏡の前で泣いていた「榛葉明佳」はもういない。顔も思い出せない男の言葉に怯えていた「妻」も、ここにはいない。
異世界という名の箱庭で、彼女は今、一歩ずつ着実に、失われた尊厳を拾い集めている。迷い込んだ母から、“帰るために、自らを整える母”へ。明佳は、深く、穏やかな呼吸を繰り返しながら、吸い込まれるように心地よい眠りへと落ちていった。明日の朝、また一歩、強く、美しくなっている自分を信じて。




