06.整う体、揺れる心
「……呼吸、止まっていますよ」
鼓膜を優しく震わせるようなシルヴァンの声が、思考の濁流に溺れかけていた明佳を引き戻した。
はっとして、明佳は溜まっていた息を吐き出した。ベッドの上で仰向けになり、膝を立てたリラックスした姿勢。ただ「呼吸をする」という、生命として当たり前の行為をなぞっているだけのはずなのに、彼女の身体は意外なほど正直に、そして臆病に反応していた。
「……すみません、つい……」
「謝る必要はありません。身体が過去の緊張を覚えているだけです」
シルヴァンは彼女の傍らに跪き、触れるか触れないかの絶妙な距離で、明佳の腹部の上に手をかざした。直接肌に触れているわけではないのに、彼の手のひらから伝わる放射熱が、厚い氷を溶かすように彼女の強張りを解いていく。
「息を吸うとき、ここが静かな湖面のように膨らむのを感じてください。吐くときは、深い眠りに落ちる赤ん坊をあやすように、ゆっくりと、長く」
『赤ん坊』、その単語が耳に届いた瞬間、明佳の胸の奥がきゅっと、悲鳴を上げるように締めつけられた。
(……颯眞……)
あの子のミルクの匂い。柔らかい産毛の感触。重み。思い浮かべただけで、横隔膜が痙攣し、腹部が鎧のように固くなるのが分かる。自分を責める「母親の罪悪感」が、呼吸という本能的な動作さえも拒絶しようとしていた。その、ミリ単位の微細な変化を、シルヴァンは見逃さなかった。
「……思い出しましたね。あなたの『宝物』のことを」
「……はい……。忘れたことなんて、一瞬もありません。でも……思い出すたびに、自分がここにいることが、呼吸をすることさえ、許されないことのように思えて……」
「大丈夫です。今は、思い出してもいい。苦しんでもいい」
彼の声は、どこまでも澄んでいて、同時に逃げ場を用意してくれる静寂を孕んでいた。
「泣いても、一時的に力が抜けても、それはすべて“回復”のためのプロセスです。自分を許せない気持ちさえも、今は呼吸と一緒に外へ流してしまいましょう」
明佳は、もう一度、震える肺に空気を送り込んだ。シルヴァンの誘導に従い、ゆっくりと、深く。
鼻から吸った清浄な空気が、気管を通り、肺を満たし、さらにその奥……産後、ずっと眠っていた腹部の奥底へと届く。腹部が緩やかに膨らみ、それと連動するように、ガチガチに固まっていた背中が、吸い込まれるようにベッドへと沈み込んでいく。
「……あ……」
小さく、驚きの声が漏れた。
「今、背中の……腰のあたりの骨が、床に溶けるみたいに……」
「ええ。素晴らしい」
シルヴァンは、子供の成長を見守る聖者のような眼差しで微笑んだ。
「横隔膜と骨盤底筋が、ようやく対話を始めました。産後、バラバラになっていたあなたの身体の歯車が、今、再び噛み合い始めている証拠です」
専門的な解釈なのに、今の明佳にはそれが、どんな詩よりも美しく響いた。
「……私の身体……。ボロボロで、もう使い物にならないと思ってたのに。まだ、ちゃんと動こうとしてくれてるんですね……」
「もちろんです」
シルヴァンは即答した。そこに一切の迷いはなかった。
「あなたの身体は、“壊れて”などいない。ただ、持ち主であるあなたが優しすぎるあまり、過剰にあなたを守ろうとして、固まっていただけです。この身体は、いつだってあなたの味方ですよ」
その言葉が、凍てついた明佳の心のインナーマッスルに、確かな熱を灯した。
数分後、静かな呼吸のワークが終了した。
「今日はここまでにしましょう。お疲れ様でした」
「……え? もう、終わりですか……? まだ、もう少しだけなら頑張れます」
思わず、縋るように聞き返してしまう。現実の世界では、ダイエットといえば「限界まで追い込むこと」だった。汗をかき、心拍数を上げ、筋肉を悲鳴を上げさせなければ、現状を変える資格などないと思い込んでいたのだ。
シルヴァンは、くすりと、子供をたしなめるような親愛を込めて笑った。
「“足りない”くらいが、明日への期待につながります。今のあなたに必要なのは、達成感ではなく、持続可能な安心感ですから」
「……昔の私なら、こんなんじゃ意味がないって、自分を責めていたと思います。もっとやらなきゃ、休んじゃいけないって……」
「ええ。だから、倒れた」
その指摘は、剃刀のように鋭く、けれど不思議と傷はつかなかった。事実を事実として、淡々と肯定してくれる。その誠実さが、今の明佳には心地よかった。
「……そう、ですね。私は、自分を壊すことでしか、頑張っていることを証明できなかった……」
明佳は視線を落とし、シーツの模様を見つめた。
「……でも、シルヴァンさん」
「……何でしょう」
「……こんなに、丁寧に……優しくされると……」
胸の奥が、言葉にできない不安と甘美な感覚でざわつく。
「……自分が、ダメになってしまいそうで。この場所に、あなたに、甘えきってしまいそうで……怖いんです」
言ってから、猛烈な後悔が押し寄せた。何を口走っているのか。自分は一人の子供の母親で、帰るべき場所を探さなければならない身だというのに。だが、シルヴァンは微動だにせず、彼女の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「甘えてください。今は、それこそがあなたにとって最も困難で、最も必要なトレーニングです」
「……っ」
「ただし。ひとつだけ約束してください」
シルヴァンは一拍置き、その穏やかな声に、凛とした厳格さを滲ませた。
「あなたの人生の手綱を、決して私に預けてはいけない」
その言葉に、明佳は弾かれたように顔を上げた。
「……え……?」
「私は、あなたを支え、導く存在です。……ですが、あなたの代わりに生きることも、あなたの代わりに颯眞くんを抱きしめることもできない」
「…………」
「私は、あなた自身が『自分の足で立ち、自分の呼吸で生きる』ための杖に過ぎません。杖に感謝する必要はあっても、杖そのものに人生を捧げてはいけない。……あなたは、いつか僕を捨てて、自分の道を行かなければならないんです」
その誠実さが、逆に明佳の胸を激しく打った。
(……この人は……依存させない優しさを持っている……)
気づいてしまった瞬間、彼女の心は、自分でも制御できない速度で彼の方へと傾いていった。かつての颯斗とは、何から何まで違う。付き合い始めの頃の彼に似た面影を持ちながら、決定的に違うところ。
(……この人は、私を“管理”しようとしない。私を『お母さん』という箱に閉じ込めようとしない。ただ、私を私として、尊重してくれている……)
その尊さが、かえって明佳の執着を煽る毒になることに、彼女はまだ気づいていなかった。
その夜。異世界の月光が差し込む部屋で、明佳は天井の木目を数えていた。腹部には、昼間の呼吸ワークで得た、じんわりとした温かさがまだ残っている。深く、深く、肺の底まで空気が入る感覚。それがこれほどまでに心に平穏をもたらすとは知らなかった。
(……シルヴァン……)
名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が熱くなり、同時に鋭い棘が刺さったように痛む。彼の言う「杖」という言葉。それは正しい。正しいからこそ、残酷だった。
(……駄目。私は、あの子のもとに帰らなきゃいけない。あんな男であっても、颯斗はあの子の父親で、私の……)
夫の名前を呼ぼうとして、やはりその顔が思い出せないことに気づき、愕然とする。覚えているのは、彼に投げかけられた冷たい言葉の感触だけだ。
「デブでも気にしてない」
「母ちゃんなんだから」
それらの言葉が、重い鎖となって彼女の足首に絡みついている。
(……でも、ここには……シルヴァンがいる……)
彼の声。絶妙な距離感。決して侵入してこない、けれど決して離れない、究極の慈愛。
(……揺れてる。私、あんなに帰りたかったはずなのに……)
その自覚だけが、暗闇の中でやけに鮮明だった。自分の身体が整っていく喜びと、身体が整えば整うほど、現実世界という戦場に戻る恐怖が増していく矛盾。明佳は、逃げるように目を閉じた。
(……明日も。また、彼と一緒に、呼吸をするんだよね……)
それが、ただの「リハビリ」であることを願う自分と、それが「愛の告白」であることを期待してしまう自分。その二人の明佳が、インナーマッスルの奥底で激しく衝突し合っていた。
暗い部屋に、規則正しく、けれど少しだけ乱れた明佳の呼吸音だけが響いていた。自分の心が、取り返しのつかない方向へと滑り落ち始めていることに、彼女はまだ、気づかないふりをしていた。




