05.琥珀色の静寂
朝の光は、やけに優しかった。窓の外で鳴く鳥の声さえも、誰かを急かすような鋭さはなく、ただそこにある命を祝福するように響いている。目を覚ますと、視界に広がるのは昨日と変わらぬ、温かな木組みの天井だ。
それだけで、ここが現実……あの、息の詰まるようなマンションの一室ではないことを思い出す。それでも───。目覚めた瞬間に真っ先に胸を支配するのは、物理的な痛みにも似た、切実な重みだった。
(……颯眞……)
その名前を心の中で形にするだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯び、目頭が熱くなる。昨夜、あの子は泣かなかっただろうか。お腹を空かせていないだろうか。
現実世界で「誰か」が面倒を見てくれているという確信が持てないまま、母としての本能だけが、空回りする歯車のように身体を軋ませる。
「……起きていますか」
控えめなノックの音。続いて、音もなく扉が静かに開いた。シルヴァンだった。朝日を背負って立つ彼は、現実世界の住人とは明らかに違う、不純物のない透明な存在感を放っている。
「……おはようございます……」
声を出そうとして、自分の喉がいまだに強張っていることに気づく。
「ええ、おはようございます。よく眠れましたか」
「……少しだけ。夢は見ませんでした。それが、今の私には一番の救いです」
正直な言葉だった。もし夢の中で颯眞に会ってしまったら、今の自分は狂わずにいられる自信がない。シルヴァンは無理に会話を続けようとはしなかった。
代わりに、盆に載せた食事をサイドテーブルに置く。香草の香りが微かに漂う湯気の立つスープ、手焼きらしい不揃いな形のパン、そして果実のシロップ漬け。どれもが、今の明佳の弱り切った胃腸を労わるような、淡く優しい色合いをしていた。
「……こんなに、すみません。気を遣わせてばかりで……」
思わず口をついて出た謝罪。それは、明佳が「母親」になってから無意識に繰り返してきた癖だった。自分が誰かの手を煩わせること、自分が「与えられる側」に回ることへの、耐えがたい申し訳なさ。
だが、シルヴァンは静かに首を横に振った。
「あなたは今、休むのが仕事です。誰かのために動くのではなく、ただ存在する。それが、今のあなたに課せられた唯一の義務なんですよ」
その言い方が、ふと、記憶の断片を激しく揺さぶった。
(……昔、こんな風に言ってくれた人がいた……気がする)
顔も思い出せない夫・颯斗。まだ、お互いが「機能」ではなく「個人」として向き合っていた頃の、遠い残像。
───無理するな。
───今日は俺がやるから、お前は寝てろ。
そんな言葉の“形”だけが、セピア色の写真のように心に浮かんで消える。
(……どうして、あんなに優しかった人は、いなくなっちゃったんだろう)
明佳は、震える手でスプーンを握りしめた。
「……シルヴァンさん」
「はい」
「……私、ここで何をすればいいんでしょうか。帰れないのは分かっています。でも、このまま何もしないでいると、自分が何者なのか、分からなくなってしまいそうで」
問いは、血を流すような切実さを伴っていた。役割を奪われた自分には、価値がない。「誰かのために」を失った瞬間に、自分の輪郭が霧散してしまうような恐怖。シルヴァンは、明佳の目を真っ直ぐに見つめ、一言ずつ噛みしめるように答えた。
「まずは、あなた自身の身体を取り戻すことです。失われた数字を追うのではなく、あなたの魂を支えるための土台を、もう一度作り直すんです」
「……身体……?」
「ええ。あなたは、私たちが想像するよりもずっと、過酷な無理をしてきました。育児、家事、そして『良き妻』という名の虚像。自分を後回しにし続け、声を上げることさえ忘れてしまった身体です」
胸の奥が、鋭いナイフで抉られたように痛む。
「……でも、母親なんですから。みんな、そうしているし……。子供を守るために、自分が削れるのは当たり前だって……」
「母親だからこそ、ですよ。明佳さん」
シルヴァンの視線が、ほんの少しだけ厳しさを帯びた。それは拒絶ではなく、彼女を深く案じるがゆえの熱量だった。
「あなたが倒れたら、あなたが愛し、守りたいものを守れない。土台の崩れた家が家族を守れないのと同じです。……いいですか、あなたが『あなた』として消えていい理由なんて、この世界のどこにも存在しないんです」
明佳は、言葉を失った。これまで誰も、そんな風には言ってくれなかった。現実世界の颯斗は、「母ちゃんなんだから元気でいろよ」とは言ったが、「お前が大切だ」とは言わなかった。
「……私、自分のこと……大切にするのを、いつの間にか罪だと思い込んでいました」
ようやく絞り出した言葉。それを認めた瞬間、身体中の力がふっと抜け、背中が丸くなる。シルヴァンは、その脆弱ささえも慈しむように微笑んだ。
「だから、ここでは違うやり方をしましょう。無理を美徳とせず、対話を主軸にする。あなたが設定した、あの“産後ダイエットモード”の本質は、そこにあるのですから」
「……モード……?」
明佳は、アプリを起動した夜のことを思い出す。あの時、シルヴァンという存在に求めたのは、ただの痩身の知識ではなかったはずだ。
「母としての身体を、壊さず、責めず、少しずつ慈しみながら取り戻す方法。……急がない。比べない。自分を削らない。それが、ここでのルールです」
一つずつ、大切に並べられる言葉。それは、明佳が現実世界で浴びてきた「もっと早く」「もっと綺麗に」「もっと効率よく」という棘だらけの言葉とは真逆の、真綿のような温もりを持っていた。
「……帰りたい気持ちは、どうすればいいですか。あの子が恋しくて、叫び出したくなる夜は、どうすれば……」
「消さなくていい。それは、あなたが愛を持っている証拠です」
シルヴァンは即答した。
「ですが、その激しい情愛を抱えたまま、倒れずに生きることはできます。そのための“器”を作るのが、ここでのトレーニングです」
少しだけ、呼吸が楽になる。愛することをやめなくていい。けれど、愛するために自分を殺さなくてもいい。
「……私、頑張らなくて、いいんですか……?」
震える問い。それは、人生で初めて、他者に許しを乞うような、あまりにも幼い響きだった。シルヴァンは、はっきりと言い切った。
「ええ。頑張りすぎた人には、今、この瞬間に『整える時間』が必要です。頑張るためのエネルギーさえ枯渇している人に、さらなる努力を強いるのは、僕の矜持が許しません」
その瞬間、明佳の頬を一筋の涙が伝い、スープの器の中に落ちた。理由は分からない。感謝なのか、安堵なのか、それとも絶望が溶け出したものなのか。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、彼女のインナーマッスル……身体の最も深い場所にある「芯」が、微かに、けれど確かな熱を持って脈打った。
「……ありがとうございます……」
シルヴァンは、彼女が泣き止むのを待つように、そっと視線を外窓へと向けた。
「……では、食事を済ませたら。今日はベッドの上で、ただ『息をする』ことから始めましょう。難しいことは何一つありません。空気を吸い、それが全身を巡り、あなたを内側から支える感覚を知るだけです」
「……呼吸、ですね」
「ええ。母である前に、あなたは一人の生命として『生きている』のですから」
明佳は、ゆっくりと息を吸い込んだ。異世界の澄んだ空気が、荒れ果てた肺の奥まで満たしていく。
(……颯眞……。お母さん、ここで、もう一度立ち上がるからね……)
心の中で、愛しい名前を呼ぶ。それはかつての「義務」からくる執着ではなく、いつか再会する日のための、自分への誓いだった。
シルヴァンに導かれ、明佳の「魂のリハビリテーション」が、静かに幕を開けた。顔も思い出せない誰かがいた、あの「重たい現実」を遠い背後に残したまま。




