04.境界の向こう側
最初に感じたのは、匂いだった。それは、都会の排気混じりの空気でも、使い古した洗剤の匂いでも、ましてや病院の無機質な消毒液の香りでもなかった。どこか湿り気を帯びた土、そして古い大樹を思わせる、深くて柔らかな木の香り。次に、音。規則正しい、落ち着いた呼吸の音。それは耳元で囁くような近さでありながら、森のざわめきのように遠く、慈悲深く響いていた。
(……誰か、いる)
重い泥の中から這い出すように、明佳はゆっくりと瞼を開いた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたビニールクロスの天井ではない。逞しい巨木をそのまま組み上げたような、美しい木組みの天井。隙間からは、塵ひとつない淡い琥珀色の光が、薄いレースのカーテン越しに差し込んでいる。
「……ここ……は……」
声を出した瞬間、喉が焼けるようにひりついた。自分の声が、自分のものではないように掠れている。
「無理に話さなくていい。今は、ただ呼吸を整えることだけを考えてください」
すぐ近くから、低く、鼓膜を優しく震わせる声がした。明佳が視線を動かすと、そこには一人の男がいた。
淡い亜麻色のシャツを纏い、無駄のない、しなやかな体躯。かつて画面越しに見ていた、あの理想的なシルエット。だが、今はそこにある肌の質感、微かに漂う体温さえもが、圧倒的な「実体」として存在していた。
「……シル……ヴァン……?」
名前が、震える唇からこぼれ落ちた。アプリの中の存在だったはずの彼は、これ以上ないほど安らかな微笑みを浮かべた。
「ええ。気付きましたね、明佳さん」
(……私の、名前……)
その呼び声に、胸の奥がぎゅっと縮む。明佳は混乱する意識を必死にかき集め、記憶の糸を辿った。深夜のキッチン。止まらない焦燥。夫……と呼ばれていた男の無神経な背中。それから、暗転。床に落ちたスマートフォン。───そして。
「……颯眞!」
雷に打たれたように、明佳は勢いよく身を起こそうとした。だが、全身の筋肉はまだ重い枷を嵌められたように言うことを聞かず、彼女は再びシーツの海へと沈み込む。
「息子……私の、子供……! 颯眞はどこ!? 私、何してたの!?」
「大丈夫です。落ち着いて」
シルヴァンはすぐに身を乗り出し、明佳の肩にそっと手を置いた。その手のひらは驚くほど温かく、そして力強かった。不思議なことに、その温もりが触れた場所から、逆流していた血液が静まっていくような感覚を覚える。
「あなたは、覚えています。ちゃんと。自分の命よりも大切な存在のことを」
「……どこ……? 颯眞は……どこにいるの……!」
涙が、止まらない。視界が歪む中で、シルヴァンは否定も、安易な慰めも口にしなかった。
「ここは、あなたのいた場所ではありません」
静かな、けれど断固とした宣告。
「ですが───あなたが母であるという事実は、誰にも奪えない。それは、あなたの魂のインナーマッスルに、深く刻まれていることだから」
頭が、追いつかない。明佳は必死に、次の記憶を探した。一歳の息子。可愛い笑顔。柔らかな頬。……そこまでは鮮明にある。だが、その子の「父親」であるはずの男の記憶に触れようとした瞬間、視界にノイズが走った。
「……颯斗……?」
名前は知っている。書類上の事実はある。けれど、その顔が思い出せない。どんな声で笑い、どんな風に自分を傷つけたのか。「誰かに、自分を否定され続けていた」という重苦しい感触だけが澱のように残っているが、その主の顔も、共に過ごした時間の断片も、霧の向こうに消え去っていた。
「……誰……なの?」
その問いに、自分自身が一番驚いた。
「……私、結婚、して……子供を産んで……。なのに、どうして」
胸の奥は、凪のように静かだった。愛していたはずの、あるいは憎んでいたはずの男の不在。それが、悲しくも、苦しくもない。ただ、「生活の重み」という名の呪縛から、そこだけが綺麗に切り取られたような開放感さえあった。シルヴァンは、明佳の混乱をすべて受け止めるように、ゆっくりと深く頷いた。
「無理に思い出そうとしなくていい。今のあなたの心には、休息が必要だった。だから、不必要なものは置いてきたのです」
「……でも、帰らなきゃ……」
明佳の声が、再び震え出す。
「颯眞が……一人になっちゃう……。あの子、私がいなきゃ、ダメなの……」
「分かっています。だからこそ、今は急がない」
シルヴァンは、彼女の細くなった手をそっと包み込んだ。
「すぐには、戻れません。この場所と、あなたのいた場所の間には、大きな淵がある。……今のあなたの、折れそうな身体と心では、その淵を越えることはできない」
「……そんな……」
「焦らなくていい。戻る方法を、一緒に探しましょう。あなたが再び、自分の足でしっかりと立ち上がり、大切な人を抱きしめられる強さを取り戻すまで。……それまでは、ここで僕と共に暮らしてください」
「……帰りたい……今すぐ……」
掠れた声で訴えながらも、明佳は気づいていた。自分は今、指一本動かすのにも全力を要するほど、疲れ果てている。心の中のインナーマッスルが、完全に破断してしまっていることを。
明佳は、しばらく泣いた。子供の名前を呼び、記憶のない「誰か」から受けた、見えない傷跡をなぞるように嗚咽を漏らし続けた。
シルヴァンは、ただ黙って傍にいた。触れすぎず、離れすぎず。彼女の悲しみが濁流となって溢れ出し、やがて引いていくのを、静かに見守っていた。やがて、涙が枯れた頃。明佳は、木組みの天井を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……私……」
「はい」
「……ここで、生きていいんですか? 何も、できていないのに。お母さんとしても、一人の人間としても……ボロボロなのに」
かつての生活なら、返ってくる言葉は決まっていた。
「飯はまだか?」
「部屋が散らかってるぞ」
「いつまで寝てるんだ」
顔も思い出せない男の、乾いた声が幻聴のように耳をかすめる。だが、シルヴァンは迷わなかった。
「ええ。もちろんです」
彼は立ち上がり、窓のカーテンを少しだけ大きく開けた。外には、見たこともないほど透明な青空と、生命力に溢れた深い森が広がっていた。
「ここでは、あなたが“母であること”を、誰も義務とは呼びません。あなたが“女性であること”を、誰も贅沢とは呼びません。あなたはただ、あなた自身を癒し、整えるためにここにいる。……それを、僕が全力で肯定します」
その言葉が、明佳の胸の最も深い場所に、静かに、けれど揺るぎない重さで落ちていった。
(……ここで……)
帰りたい。息子のもとへ。けれど───今の私は、自分を支えることさえできない。その残酷な事実を、明佳は初めて、逃げることなく受け入れた。
シルヴァンの穏やかな微笑みが、光の中に溶けていく。
それはかつて、自分がスマートフォンの画面越しに求めた、究極の「救い」そのものだった。
「ゆっくりでいい、明佳さん。まずは、深い呼吸から始めましょう。ここの空気は、あなたを傷つけたりしませんから」
その言葉を、明佳は初めて、心の底から“信じられる”気がした。失われた夫の記憶。残された母としての本能。
そして、目の前に現れた実体を持つ理想の教官。異世界という名の箱庭で、明佳の「産後ダイエット」は、単なる減量を超えた、魂の再構築へと向かい始める。




