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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第9章 母の体は壊れていない、ただ役割が変わっただけ【再調律編】

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03.閉ざされたインナーマッスル


 眠りが、浅い。それは産後、明佳の身体に染み付いてしまった悪癖だった。


 目を閉じても、脳のどこかが常に覚醒している。颯眞の寝息がわずかに乱れたり、寝返りを打つ衣擦れの音が聞こえたりするだけで、意識の表面にすぐさま浮上してしまう。


(起きてない……よね。まだ、大丈夫だよね)


 午前二時。暗闇の中、明佳はそっと身を起こした。冷えた空気の中、ベビーベッドを覗き込む。おしゃぶりを口に含んだまま、規則正しい呼吸を繰り返す息子を確認して、ようやく肺に溜まったおりのような息を吐き出した。


「……はぁ」


 時計の針が無慈悲に時を刻んでいる。あと三時間も寝られない。朝になれば、また「母親」という役割のスイッチを強制的に入れなければならない。


(このままじゃ、だめだ。何かが、足りない)


 胸の奥を走る、正体不明の焦燥感。シルヴァンとのトレーニングを始めてから、確かに身体の感覚は変わりつつあった。姿勢が良くなり、鏡の中の自分にほんの少しだけ生気が戻ってきた。


 けれど、それは同時に「変わらなければ、またあの透明な存在(母親という機能)に戻ってしまう」という恐怖を、明佳に植え付けていた。自分を律しなければならない。もっと完璧に。もっと美しく。それがいつしか、自分を救うためのダイエットから、自分を追い詰めるための儀式へと変質し始めていた。




 翌朝。目覚ましよりも先に、枕元でスマートフォンが微かに震えた。


『おはようございます、明佳さん。……今日は、少し顔色が優れないようですね。無理をしなくていいですよ。ストレッチもお休みしましょう』


 シルヴァンの、いつも通りの穏やかなメッセージ。その言葉に、以前の明佳なら心から安堵したはずだった。けれど今の彼女にとって、彼の優しさは、自分の「至らなさ」を突きつけられているようで、ちくりと胸が痛んだ。


(……でも。休んだら、昨日までの努力が全部消えちゃう気がする)


 “無理をしない”と、“何もしない”は違う。明佳は、重い瞼をこじ開け、布団の中で頑なな決意を固めた。


「ちゃんと、やらなきゃ」


 そう呟く彼女の声は、どこか自分に言い聞かせるような悲痛な響きを帯びていた。もしここで立ち止まったら、またあの、颯斗に「デブでも気にしてない(=女として見ていない)」と言われた、どん底の自分に逆戻りしてしまう。颯眞を抱き上げ、慣れた手つきで朝食を作り、洗濯機を回す。


 その細切れの合間に、明佳はシルヴァンの指導通り、壁に背を向け、インナーマッスルを引き上げる呼吸を試みる。けれど───。いつもはすんなりと通るはずの空気が、今日は胸の途中で詰まってしまう。


「……っ、ふぅ、……くっ」


 肺が、拒絶している。身体中の筋肉が、悲鳴を上げている。スマートフォンの中のシルヴァンは、心配そうに眉を下げていた。


『明佳さん、呼吸が浅すぎます。心拍数も上がっている。今日は、ここまででいいです。……いいえ、画面を閉じて、今すぐ横になってください。これは、命令ではなく、願いです』


 シルヴァンの誠実な、どこまでも彼女を想う声。それなのに、明佳の歪んだ心は、その言葉を歪曲して受け取った。


「……もう少し、やります。これくらい、みんなやってるんだから」


 独り言のように吐き捨て、彼女はアプリを強制終了させた。シルヴァンの優しい制止を振り切ること。それは、自分を愛してくれた「過去の颯斗」を拒絶することにも似て、胸を締め付けた。


(せっかく、ここまで来たんだから……。彼に、もっとマシになった私を見せたいのに)




 午後。颯眞が昼寝をしている間も、明佳は止まれなかった。立ちっぱなしでキッチンに立ち、普段より手の込んだ夕飯の下ごしらえを始める。買い物袋の重みで、腰に鈍い、刺すような痛みが走る。腹筋離開の影響で、まだ完全には戻りきっていない体幹が、過酷な負荷に震えていた。


(大丈夫。骨盤を立てて……、重心を意識して……)


 自分に言い聞かせながら、震える膝に力を込める。


“母親なんだから”

“これくらい、当たり前なんだから”


 かつて母が、祖母が、当然のようにこなしてきた日常。それができない自分は、女としても母としても落第なのだという、根拠のない呪いが彼女を突き動かす。


 夕方、颯斗が帰宅した。リビングに漂う、いつもより香ばしい出汁の匂いと、整えられた空間。けれど、彼はその「努力」には目もくれず、食卓に並んだ皿を一瞥して、何気ない調子で言った。


「今日さ、飯、ちょっと軽くない?  もっとガッツリした肉とかないの?」


 明佳の、包丁を握っていた手が一瞬止まる。


「……今、ダイエット中だから。高タンパク低カロリーなものに寄せてるの」

「まだやってんの?  そんなストイックにならなくてもさ。別に、今のままでも───」


 颯斗はそこで一度言葉を切ると、少しだけ面倒くさそうに笑って続けた。


「───今のままでも、俺は文句言わないし。母ちゃんとしてやってくれてりゃ、それでいいんだよ」


 言葉の続きを、明佳は待たなかった。


「……いいから。黙って食べて」


 自分でも驚くほど、冷え切った低い声が出た。颯斗の言葉。それは、彼なりの「気遣い」のつもりだったのかもしれない。無理をするな、という甘やかしのつもりだったのかもしれない。


 だが、今の明佳にとって、それは彼女の「一人の女性としての再生」を真っ向から否定し、「母親という記号」の中に閉じ込めようとする、残酷な宣告だった。


 颯斗は肩をすくめ、それ以上踏み込もうとはしなかった。「機嫌が悪いんだな」と勝手に納得し、スマートフォンの動画を見ながら、義務的に食事を口に運ぶ。食卓には、氷のような沈黙が落ちた。




 その夜。ようやく颯眞を寝かしつけた後、明佳はリビングのソファに崩れるように沈み込んだ。全身の節々が熱を持ち、心臓の音が耳元でうるさく鳴り響いている。目を開けていることさえ、苦痛だった。


(……少しだけ。彼の声を、聞けば、楽になれるかも)


 震える指でスマートフォンを手に取り、シルヴァンの画面を開く。


『明佳さん! ……なんて無茶を。今すぐ救急車を、とは言いませんが、せめて水を飲んで、深呼吸をしてください。あなたは、頑張りすぎた。あなたのインナーマッスルは、もう、あなたを支えきれなくなっています』


 画面越しのシルヴァンの声が、今までになく切迫していた。その、自分を心から案じる響き。自分の痛みに、誰よりも早く気づいてくれる温かさ。


 その瞬間───。明佳の中で張り詰めていた、最後の一本の糸が、プツリと音を立てて切れた。


「……休めないのよ、シルヴァン」


 誰に向けた言葉でもなかった。頬を伝う涙が、スマートフォンの画面を濡らす。


「休んだら……、また戻れなくなる。誰からも見てもらえない、ただの『母ちゃん』に戻っちゃう。……そんなの、怖くて耐えられないの」


 付き合い始めの頃の、颯斗。自分を大切にしてくれた、あの人。彼をもう一度取り戻したいわけじゃない。ただ、「一人の女性として、誰かに見つめられていたい」という、空腹にも似た乾きが、彼女を狂わせていた。


 明佳は、ふらふらと立ち上がった。シルヴァンが止めるのも聞かず、自分の身体がまだ動くことを証明するために、無理やりストレッチのポーズを取ろうとした。


 それが、最後の判断ミスだった。視界が、ぐらりと万華鏡のように歪む。床が、猛スピードで迫ってくる。耳鳴り。心拍が、一瞬だけ止まったような錯覚。息が、入ってこない。


(……あ。颯眞、……)


 その名前だけが、脳裏に鮮明に浮かんだ。母親としての、最後までの本能。


「……そう、ま……」


 足から力が抜け、身体が前に倒れ込む。硬いフローリングが視界いっぱいに広がり、白く弾けた。


 最後に見えたのは、床に落ちたスマートフォンの画面。そこには、絶望と恐怖を浮かべ、今にも画面を突き破って彼女を抱き留めようとする、シルヴァンの姿が映っていた。


『明佳さん――!  アスカッ!!』


 彼が初めて、自分を名前で呼んだ気がした。けれど、その叫びは遠くなる。


(……ごめんね、シルヴァン。ごめんね……颯眞……)


 誰に向けた、何の謝罪なのか。それさえも思考の霧の中に消え、明佳の意識は、深くて冷たい闇の底へと沈んでいった。

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