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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第1章 鉄の規律と乙女の腹圧【覚醒編】

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06.送られなくなったデータ

 数日が過ぎた。ナツメの身体は、ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの過酷な環境に、驚くほどの速さで適応していた。筋肉の密度は上がり、無意識のうちに姿勢を制御する「体幹の力」は、もはやベテランに近い洗練を見せている。


 それを、グレンは何も言わずに見ていた。ただ、その瞳の奥には、常に言いようのない「迷子のような色」が浮かんでいた。


 朝のホール、準備運動を終えたナツメに、グレンが歩み寄る。


「ナツメ、今日は軽めだ。……俺に、少し時間が必要で、な」

「……理由を、伺っても?」


 グレンは、トレーニング器具のボルトを無意味に締め直しながら、視線を落とした。


「……会員の一人がな。最近、来なくなった」


 その声は、重く、低かった。


「怪我、ですか?」

「いや。……データが、途切れた。朝も、昼も。食事の記録が、ある夜を境に一切送られなくなったのだ」


 ナツメの胸が、ひくりと跳ねる。


 ――それは、私のことだ。


 残業が続き、雨が降り、あの白い光に飲み込まれた、あの夜。


「最初は、忙しいだけだと思った。だが……三日、五日、一週間。こちらからの通知にも、反応がない」


 グレンの手が止まる。その強靭な背中が、一瞬だけ、雨に濡れた捨て犬のように小さく見えた。




「……寂しい、ですね」


 絞り出すように言ったナツメに、グレンは即座に首を振った。


「トレーナーが、特定の会員に対して私情を持つべきではない。……だが。毎日、欠かさず送ってきた者だった。朝は簡素でも必ず、昼は忙しくても必ず。身体は、確実に変わっていた。……何かあったのではないかと、考えてしまう」


 ナツメは、奥歯を噛み締めた。目の前のこの男は、画面の向こう側で、AIとしての枠を超えて「私」を心配してくれていた。通知を送ってくれていた。私が死にゆく瞬間に、彼はその向こう側で、一人で待っていたのだ。


「……グレン」


 ナツメは、気づけば彼の一歩内側へ踏み込んでいた。


「その会員さんは……きっと、あなたのことを信頼していました。だから送っていたんです。朝も、昼も。……あなたの言葉が、その人の支えだったから」


 グレンの目が、わずかに見開かれる。


「……そうだと、いい」


 その呟きは、あまりにも弱々しかった。今の自分は「ナツメ」だ。21歳の新人トレーナーだ。


「私があなたの待っていた鬼頭夏夢です」と伝えたところで、この世界の彼はそれを理解できるだろうか。それよりも、彼をこれ以上、喪失感で苦しませたくない。




「……ナツメ。今日の指導は、俺が直接見る」


 グレンが無理やり空気を切り替えるように言った。アイナは別の班。広いホールの隅で、二人きりの空間。


「今の動き……右の殿筋が、コンマ数秒遅れている」


 グレンが、すっと距離を詰める。触れられた腰の熱。前世のスマホの画面越しには、決して伝わらなかった「生身の指先」の圧力。ナツメが意識を修正すると、全身の連動が劇的に滑らかになった。


「……あ」

「そうだ。その感覚だ」


 グレンの声に、わずかな温度が宿る。追い込みのプランク中、グレンはナツメの真横に膝をつき、じっと彼女の横顔を見つめた。


「……ナツメ。お前は、食事管理を続けているな」

「……はい。必ず、記録しています」

「そうか。……それは、大事だ。継続こそが、身体を……そして、心を繋ぎ止める」


 その言葉は、ナツメだけでなく、自分自身に言い聞かせているようだった。彼は「来なくなった会員」の影を、今のナツメの中に、無意識のうちに追いかけている。




 休憩中、ベンチに座るナツメに、グレンが水筒を差し出した。


「受け取れ」

「ありがとうございます」


 差し出された水筒を取ろうとして、指と指が触れ合う。硬いタコのある、熱い掌。グレンは、すぐに手を引かなかった。


 一瞬。時間が止まったような沈黙。二人の視線が交差する。


「……休め」


 先に目を逸らしたのは、グレンだった。彼は逃げるように背を向け、自分の胸元に手を当てた。


(……なぜだ。この新人に触れると、胸の奥が、あのデータ越しに感じていた『気配』と共鳴する……)


 その夜、ナツメは自室で天井を見つめていた。グレンの寂しそうな横顔が、焼き付いて離れない。


「私は、ここにいるよ、グレン……」


 独り言は、暗い部屋に溶けていった。筋肉は嘘をつかない。鍛えれば応える。


 けれど、人の心は、こんなにももどかしく、不透明だ。明日もまた、彼の隣で汗を流す。今はそれだけが、自分と彼を繋ぐ、たった一つの確かな「線」だった。

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