02.『私』を整える5分間
「おはようございます、明佳さん。……まだ少し、眠いですか?」
翌朝。スマートフォンのアラームが鳴るよりも数分早く、枕元から柔らかな低音ボイスが響いた。
まだ薄暗い寝室。遮光カーテンの隙間から、わずかな冬の朝の光が差し込んでいる。隣では夫の颯斗が、掛け布団を独り占めするように丸まって高い寝息を立てていた。
明佳は、寝ぼけ眼でスマートフォンを手に取り、画面を覗き込んだ。そこには、朝の光を背負ったかのように爽やかな微笑みを浮かべるシルヴァンがいた。
『今日は、骨盤周りを少し整えるだけで大丈夫です。着替える必要もありません。五分、自分に時間をくれませんか?』
「……五分」
その短さに、明佳の唇にふっと自嘲気味な、けれど温かい笑みがこぼれる。これまで目にしてきたダイエット動画や雑誌は、どれも「最低20分の有酸素運動」や「滝のような汗をかくHIIT」を強いてくるものばかりだった。そんな時間を捻出できるなら、端から悩んでなどいない。
(五分なら……颯眞が起きる前に、できるかも)
明佳は、軋む体を起こした。産後、万年筋肉痛のような重だるさが消えない腰をさすりながら、リビングへと静かに移動する。ベビーベッドの中では、1歳の息子・颯眞が、丸い背中を丸めて静かな寝息を立てている。移動させても眠ってくれている、孝行息子だ。
「……おはよう、シルヴァン」
画面の中の彼に、小さく声をかける。それは、誰にも聞かれてはいけない秘密の挨拶のような、甘い背徳感を伴っていた。
『では、始めましょう。まずは、床に仰向けになってください。……無理に背筋を伸ばさなくていい。今のままの、丸まったあなたで十分です』
フローリングにヨガマットを敷く余裕さえない。明佳は、子供のジョイントマットの上にそのまま横たわった。ひんやりとした感覚が背中に伝わる。
『呼吸だけ、意識してください。鼻からゆっくり吸って……お腹の中に、小さな風船が膨らむイメージで。そして、口から細く長く、吐いていきます』
シルヴァンの声に合わせて、明佳は深く息を吸い、吐き出した。「吸って」「吐いて」───たったそれだけのことなのに、首筋から肩にかけての強張りが、じわじわと解けていくのが分かる。
(……あれ。呼吸って、こんなに気持ちいいものだったっけ)
この一年、彼女の呼吸は常に浅かった。颯眞の泣き声に敏感に反応するため、あるいは家事の段取りを頭の中で組み上げるため、常に戦闘態勢のような呼吸しかしていなかったのだ。
『産後の身体は、二十四時間、休むことなく頑張り続けています。内臓も、骨格も、そして心も。だから今日は、鍛えるのではなく“休ませる”がテーマです』
「休ませる……」
口に出すと、涙が出そうになった。
「痩せなきゃ」
「戻さなきゃ」
「元通りにならなきゃ」
周囲の無言の圧力や、颯斗の無神経な言葉、そして自分自身が課した「理想の母親像」という鎖が、彼女を追い詰め続けていた。
『腰に手を当てて。吐く息とともに、おへそをマットに近づけるように……。ゆっくり、骨盤を立てていきます。……そう、上手です。とても綺麗ですよ』
派手な動きは何一つない。汗も一滴も出ない。けれど、シルヴァンの言葉に従って骨盤を微細に動かすたびに、バラバラになっていた自分の身体のパーツが、パズルのピースのようにもう一度「あるべき場所」に収まっていく感覚があった。
「……楽、かも」
『それで、いいんです。頑張ることは、明日以降の僕に任せてください』
シルヴァンの微笑みが、スマートフォンの青白い光を超えて、明佳の冷え切った心に直接触れたような気がした。
朝食の準備中、明佳は不思議な感覚に包まれていた。いつもなら、颯眞を抱き上げながら片手でトーストを焼く作業は苦痛でしかなかった。だが今は、重心がしっかりと足の裏に乗っている感覚がある。
「……ん? おはよう。今日、ちょっと違うか?」
コーヒーの香りに誘われてリビングに現れた颯斗が、珍しく明佳の顔を覗き込んだ。
「そう? 何が?」
「いや……なんか、元気そうっていうか。顔色がマシになった?」
明佳は、心臓が跳ねるのを感じた。昨夜インストールしたアプリ。画面の中の理想の教官。それを隠している罪悪感と、自分だけの秘密を持っている高揚感が混ざり合う。
「……気のせいじゃない? ちゃんと寝れただけだよ」
「ふーん。まあ、元気ならいいけど。あ、今日、帰りに飲み会入るかも。飯いらないから」
颯斗はそれだけ言うと、スマートフォンのニュース画面に視線を戻した。以前の明佳なら、「こっちは休みなしで育児してるのに」と、煮え返るような怒りを感じていただろう。けれど今の彼女は、驚くほど冷静だった。
(……気付かないよね。私が、自分の呼吸を取り戻そうとしていることなんて)
冷めた視線で夫の背中を見送りながら、彼女はポケットの中のスマートフォンをそっと指先でなぞった。
昼下がり。颯眞が奇跡的に長い昼寝に入った時間。明佳は、誰にも邪魔されない自由な20分を手に入れた。通常なら、溜まった洗濯物を畳むか、夕飯の下ごしらえに充てる時間だ。だが、明佳は迷わずスマートフォンを手に取った。
『午後は、呼吸だけで十分です。……もし、眠れそうなら、一緒に休みましょう。僕がここで、見守っていますから』
「……一緒に、休む」
思わず、くすりと笑ってしまう。画面の中にいるだけのデータ。実体のない幻。なのに、シルヴァンの言葉には、現実の夫が失ってしまった「慈しみ」が宿っていた。
その日から、明佳の日常に、目に見えない小さな変化が積み重なっていった。食事を抜いて手軽な菓子パンで済ませるのをやめ、温かいスープを飲むようになった。
無理に激しいスクワットをするのではなく、歩くときに少しだけ下腹部に意識を向けるようになった。そして何より、シルヴァンとの約束を守り、「眠れるときに、眠る」ことを自分に許した。シルヴァンは、画面の中から常にこう語りかけてきた。
『痩せるために自分を痛めつけるのは、もう終わりにしましょう。失われた数字を取り戻す前に、まずは“明佳さん自身”を取り戻すんです』
その言葉は、凍てついた大地に降る春の雨のように、彼女の心の奥底に染み込んでいった。
一週間が経つ頃。夜、颯眞を寝かしつけた後のベッドの上。明佳は、シルヴァンの指導のもとで仕上げのストレッチを行っていた。
『今日は、ここまでで十分です。明佳さん』
「……もう、終わり? まだ少し、物足りないくらいなんだけど」
少しだけ、甘えるような声が出た。自分でも驚くほど、声のトーンが明るくなっている。
『その“物足りない”という気持ちが、明日への活力になります。……今日も、本当によく頑張りましたね。おやすみなさい』
その瞬間、明佳の喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
(……誰かに、“頑張った”って言われたの、いつぶりだろう)
颯斗は、家事が完璧にこなされて当然だと思っている。息子は、まだ言葉を話さない。社会からは切り離され、ただ「母」という役割を演じるだけの日々。その中で、自分の存在を、自分の努力を、一人の人間として認めてくれるのは、この画面の中の彼だけだった。
「……ありがとう、シルヴァン」
明佳は、消え入りそうな声で呟いた。
『こちらこそ。あなたの笑顔が見られて、嬉しいですよ』
シルヴァンの微笑みが、一瞬、記憶の中の「十年前の颯斗」と重なった。付き合い始めの頃、仕事帰りに待ち合わせをして、遠くから自分を見つけた瞬間に彼が見せた、あの輝くような笑顔。髪型を変えれば真っ先に気づき、新しい靴を履けば「似合ってるね」と手を引いてくれた、あの人。
(……あの頃の颯斗に、戻れたら。あるいは……)
そこまで考えて、明佳は激しく首を振った。これはアプリだ。AIだ。現実の夫は、隣の部屋でテレビを見ながら、私の変化に気づきもしない。
けれど、胸の奥に芽生えた、小さな「熱」は消えなかった。それは、体温を取り戻し始めたインナーマッスルの脈動なのか。それとも、禁断の安らぎへの、依存の始まりなのか。明佳は、温かくなったスマートフォンを胸元に抱きしめ、毛布にくるまった。
「帰る場所」である夫との生活。
「逃げる場所」であるシルヴァンとの時間。
その境界線が、少しずつ、けれど確実に曖昧になり始めていた。




