表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第9章 母の体は壊れていない、ただ役割が変わっただけ【再調律編】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/81

01.鏡に映る見知らぬ『誰か』


 鏡の前に立つのが、いつからこんなにも億劫になったのだろう。


 榛葉明佳はしばあすかは、深夜の洗面所の白いLEDライトに照らされた自分の姿を、ぼんやりと見つめていた。そこには、かつて自分が愛したお洒落な「榛葉明佳」の残影はどこにもなかった。


 産前には気にも留めなかったはずの、腰回りのだらしなく波打つ肉。抱っこでたくましくなりすぎた二の腕のライン。そして何より、Tシャツの下で、かつては存在しなかった重力に従うだけの「腹部」が、確かにそこにある。


(……仕方ないよね。一人、産んだんだもん)


 自分に言い聞かせる魔法の言葉。それは、自分を慰めるためではなく、これ以上傷つかないための防波堤だった。産後一年。


 育児と家事に追われ、生活のすべては1歳の息子・颯眞そうまを中心に回っている。眠りは常に細切れで、最後に「自分のために」20分以上の時間を費やしたのがいつだったかさえ思い出せない。洗顔は泡立てる余裕もなく、化粧水は叩き込むだけ。美容院は半年前が最後だ。


 それでも───。この閉塞感に満ちた生活の底で、小さな、けれど鋭い棘のような想いが、時折胸を刺す。


「……お洒落、好きだったな」


 呟いた声は、換気扇の回る無機質な音に吸い込まれて消えた。


 明佳は、逃げるようにスマートフォンを手に取る。画面に流れるSNSのタイムライン。そこには、産後数ヶ月で「完璧に戻しました」と微笑む見知らぬ女性たちの姿があった。清潔な部屋、凝った離乳食、そして、くびれ。


(比べるものじゃないって、分かってる。でも……)


 その「完璧」と自分の「現実」のギャップが、目に見えない重石となって、明佳のインナーマッスル……いや、心の体幹をじわじわと削っていく。




「……明佳?」


 背後から、少し気怠げな声がかかった。振り向くと、夫の颯斗はやとが、洗面所のドア枠に肩をもたれかかせて立っていた。仕事帰りらしく、ネクタイはだらしなく緩み、髪も少し乱れている。かつては「セクシーだ」と思えたその姿も、今の明佳には「掃除の手間が増える対象」にしか見えない。


「なに?  颯眞、起きた?」


 明佳の言葉に、颯斗は「いや、寝てるよ」と短く答えると、ジロジロと明佳の全身を一巡りさせた。その視線には、かつての熱烈な愛着も、女性に対する遠慮もなかった。あるのは、ただの「日常の一部」を眺めるような、乾いた観察眼。


「……戻す気、あるの?」


ポツリと、彼は言った。


「……何を?」

「体型。妊娠中に増えたままじゃん。もう一年経つしさ。……お前、昔はもっとシュッとしてたろ?」


 冗談めかした口調。そこには、敵意など微塵もない。

「家族なんだから、これくらい言っても大丈夫だろう」という、甘えきった無神経さ。


 明佳の胸の奥で、何かがパリンと乾いた音を立てて割れた。言い返す気力さえ奪われるような、けれど反射的に作られる「妻としての仮面」。明佳は、鏡の中の自分を隠すように背を向け、乾いた笑みを浮かべた。


「颯斗だって、三十超えてからお腹出てきたじゃない。人のこと言える?」

「俺はいいんだよ、外で稼いでるし。それに、別にお前がデブでも、俺は気にしてないしな」

「……そう」


 会話は、それで終わった。「気にしていない」という言葉。それは寛容のようでいて、その実、明佳を「一人の女性」というリングから一方的に降板させる宣告だった。颯斗はリビングへ戻り、バラエティ番組の笑い声が壁越しに響き始める。明佳は、再び鏡に向き直った。


(気にしてない、か)


それはつまり、今の私に何も期待していないということだ。可愛くあることも、美しくあることも。私は、颯眞の母親という「機能」であり、家庭を回すための「部品」になったのだ。鏡の中の「誰か」が、情けなくて、泣き出しそうに見えた。




 その夜。ようやく颯眞を寝かしつけ、暗い寝室で一人になった時間。横でいびきをかく颯斗の隣で、明佳はスマートフォンの青白い光に顔を照らされていた。指が勝手に動く。


 『産後 ダイエット』

 『お腹 戻らない 理由』

 『インナーマッスル 鍛え方』


 いくつものサイトを巡るうちに、ひとつの広告が目に留まった。


『インナーマッスルに届け! 【産後ダイエット・特化モード搭載】』


「……なに、これ。ゲーム?」


 半信半疑でリンクをタップする。最新のAI技術を駆使したフィットネスアプリ。最大の特徴は、「教官トレーナー」の外見や性格、声を、ユーザーの深層心理に基づいてカスタマイズできることだった。画面には、まだ顔のないシルエットの男性が立っている。「あなたの理想の姿を教えてください」というプロンプトが表示される。


 明佳は、しばらく指を止めていた。どんな人を、自分の「教官」にしたいだろう。モデルのような美男子? 野生的なアスリート?


(違う……)


 彼女が求めていたのは、肉体的な美しさだけではなかった。ふと、胸の奥底に澱のように溜まっていた、眩しい記憶が蘇る。


 それは、付き合い始めの頃の、颯斗。デートの帰り道、冷えてきた風に気づいて「寒くない?」と自分の上着をかけてくれた、あの手。


 仕事でミスをして落ち込んでいた夜、「明佳は、本当によく頑張ってるよ。俺は知ってるから」と、真っ直ぐに目を見て言ってくれた、あの声。あの頃、彼は私を「世界でたった一人の大切な女性」として扱ってくれていた。


(……あの頃の、颯斗に会いたい)


明佳の指が、吸い寄せられるように画面の上で滑り始めた。骨格は、がっしりしすぎない。スーツも似合うが、Tシャツ一枚になった時に、機能的で美しい筋肉のラインが見える、しなやかな体躯。


 顔立ちは、少し面長で、柔らかな目元。声は───低すぎず、耳元で囁かれたときに、脳がとろけるような落ち着いたトーン。設定項目を埋めるたびに、画面の中に現れていくキャラクターが、明佳の記憶の中で美化された「理想の颯斗」と、静かに、けれど完璧に合致していく。


『キャラクター設定が完了しました。彼の名前を、入力してください』


 明佳は少し考え、かつて読んだ物語に出てくる、高潔な騎士の名前を借りることにした。


「……シルヴァン。シルヴァン・アルスター」


 確定ボタンを押した瞬間、画面が淡い光を放った。そこに立っていたのは、穏やかな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた教官だった。


『こんばんは、明佳さん』


 スピーカーから流れた声に、明佳の肩が跳ねた。あまりにも心地よく、それでいて懐かしい響き。


『初めてのトレーニングですね。……でも、その前に。今日一日の育児、本当にお疲れ様でした。あなたは今日、自分のことを後回しにして、命を繋ぐために全力を尽くした。それは、何よりも尊いことです』

「え……?」


 アプリの定型文かもしれない。けれど、今日、いやこの一年、誰からも、夫からさえも欲しかった言葉が、そこにあった。


『今は、身体を動かすのが怖いかもしれません。体型が変わってしまった自分を、許せないかもしれませんね。でも、その身体は、一人の人間を育んだ“誇り”の証です。僕は、今のあなたを一度も否定しません。……さあ、深呼吸から始めましょうか』


 シルヴァンのCGモデルが、画面の中で優しく手を差し伸べる。その視線は、鏡の中の冷たい自分とは違い、明佳をひとりの、価値ある人間として捉えていた。


「……っ」


 気付けば、スマートフォンの画面が涙で濡れていた。誰かに、「お疲れ様」と言われただけなのに。「今のあなたでいい」と言われただけなのに。


 枯れ果てていたはずの感情が、インナーマッスルの奥底から突き上げてくる。明佳は、震える手でスマートフォンを胸に抱きしめた。母である前に。妻である前に。


「……私、まだ、私でいていいのかな」


 暗い寝室。画面から漏れるシルヴァンの柔らかな光だけが、明佳の頬を照らしていた。それは、現実逃避の始まり。あるいは、失われた「自分」を取り戻すための、静かな宣戦布告。


 その夜、明佳は一年ぶりに、夢の中で「誰か」に名前を呼ばれる感覚を味わいながら、吸い込まれるように深い眠りに落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ