01.鏡に映る見知らぬ『誰か』
鏡の前に立つのが、いつからこんなにも億劫になったのだろう。
榛葉明佳は、深夜の洗面所の白いLEDライトに照らされた自分の姿を、ぼんやりと見つめていた。そこには、かつて自分が愛したお洒落な「榛葉明佳」の残影はどこにもなかった。
産前には気にも留めなかったはずの、腰回りのだらしなく波打つ肉。抱っこでたくましくなりすぎた二の腕のライン。そして何より、Tシャツの下で、かつては存在しなかった重力に従うだけの「腹部」が、確かにそこにある。
(……仕方ないよね。一人、産んだんだもん)
自分に言い聞かせる魔法の言葉。それは、自分を慰めるためではなく、これ以上傷つかないための防波堤だった。産後一年。
育児と家事に追われ、生活のすべては1歳の息子・颯眞を中心に回っている。眠りは常に細切れで、最後に「自分のために」20分以上の時間を費やしたのがいつだったかさえ思い出せない。洗顔は泡立てる余裕もなく、化粧水は叩き込むだけ。美容院は半年前が最後だ。
それでも───。この閉塞感に満ちた生活の底で、小さな、けれど鋭い棘のような想いが、時折胸を刺す。
「……お洒落、好きだったな」
呟いた声は、換気扇の回る無機質な音に吸い込まれて消えた。
明佳は、逃げるようにスマートフォンを手に取る。画面に流れるSNSのタイムライン。そこには、産後数ヶ月で「完璧に戻しました」と微笑む見知らぬ女性たちの姿があった。清潔な部屋、凝った離乳食、そして、くびれ。
(比べるものじゃないって、分かってる。でも……)
その「完璧」と自分の「現実」のギャップが、目に見えない重石となって、明佳のインナーマッスル……いや、心の体幹をじわじわと削っていく。
「……明佳?」
背後から、少し気怠げな声がかかった。振り向くと、夫の颯斗が、洗面所のドア枠に肩をもたれかかせて立っていた。仕事帰りらしく、ネクタイはだらしなく緩み、髪も少し乱れている。かつては「セクシーだ」と思えたその姿も、今の明佳には「掃除の手間が増える対象」にしか見えない。
「なに? 颯眞、起きた?」
明佳の言葉に、颯斗は「いや、寝てるよ」と短く答えると、ジロジロと明佳の全身を一巡りさせた。その視線には、かつての熱烈な愛着も、女性に対する遠慮もなかった。あるのは、ただの「日常の一部」を眺めるような、乾いた観察眼。
「……戻す気、あるの?」
ポツリと、彼は言った。
「……何を?」
「体型。妊娠中に増えたままじゃん。もう一年経つしさ。……お前、昔はもっとシュッとしてたろ?」
冗談めかした口調。そこには、敵意など微塵もない。
「家族なんだから、これくらい言っても大丈夫だろう」という、甘えきった無神経さ。
明佳の胸の奥で、何かがパリンと乾いた音を立てて割れた。言い返す気力さえ奪われるような、けれど反射的に作られる「妻としての仮面」。明佳は、鏡の中の自分を隠すように背を向け、乾いた笑みを浮かべた。
「颯斗だって、三十超えてからお腹出てきたじゃない。人のこと言える?」
「俺はいいんだよ、外で稼いでるし。それに、別にお前がデブでも、俺は気にしてないしな」
「……そう」
会話は、それで終わった。「気にしていない」という言葉。それは寛容のようでいて、その実、明佳を「一人の女性」というリングから一方的に降板させる宣告だった。颯斗はリビングへ戻り、バラエティ番組の笑い声が壁越しに響き始める。明佳は、再び鏡に向き直った。
(気にしてない、か)
それはつまり、今の私に何も期待していないということだ。可愛くあることも、美しくあることも。私は、颯眞の母親という「機能」であり、家庭を回すための「部品」になったのだ。鏡の中の「誰か」が、情けなくて、泣き出しそうに見えた。
その夜。ようやく颯眞を寝かしつけ、暗い寝室で一人になった時間。横でいびきをかく颯斗の隣で、明佳はスマートフォンの青白い光に顔を照らされていた。指が勝手に動く。
『産後 ダイエット』
『お腹 戻らない 理由』
『インナーマッスル 鍛え方』
いくつものサイトを巡るうちに、ひとつの広告が目に留まった。
『インナーマッスルに届け! 【産後ダイエット・特化モード搭載】』
「……なに、これ。ゲーム?」
半信半疑でリンクをタップする。最新のAI技術を駆使したフィットネスアプリ。最大の特徴は、「教官」の外見や性格、声を、ユーザーの深層心理に基づいてカスタマイズできることだった。画面には、まだ顔のないシルエットの男性が立っている。「あなたの理想の姿を教えてください」というプロンプトが表示される。
明佳は、しばらく指を止めていた。どんな人を、自分の「教官」にしたいだろう。モデルのような美男子? 野生的なアスリート?
(違う……)
彼女が求めていたのは、肉体的な美しさだけではなかった。ふと、胸の奥底に澱のように溜まっていた、眩しい記憶が蘇る。
それは、付き合い始めの頃の、颯斗。デートの帰り道、冷えてきた風に気づいて「寒くない?」と自分の上着をかけてくれた、あの手。
仕事でミスをして落ち込んでいた夜、「明佳は、本当によく頑張ってるよ。俺は知ってるから」と、真っ直ぐに目を見て言ってくれた、あの声。あの頃、彼は私を「世界でたった一人の大切な女性」として扱ってくれていた。
(……あの頃の、颯斗に会いたい)
明佳の指が、吸い寄せられるように画面の上で滑り始めた。骨格は、がっしりしすぎない。スーツも似合うが、Tシャツ一枚になった時に、機能的で美しい筋肉のラインが見える、しなやかな体躯。
顔立ちは、少し面長で、柔らかな目元。声は───低すぎず、耳元で囁かれたときに、脳がとろけるような落ち着いたトーン。設定項目を埋めるたびに、画面の中に現れていくキャラクターが、明佳の記憶の中で美化された「理想の颯斗」と、静かに、けれど完璧に合致していく。
『キャラクター設定が完了しました。彼の名前を、入力してください』
明佳は少し考え、かつて読んだ物語に出てくる、高潔な騎士の名前を借りることにした。
「……シルヴァン。シルヴァン・アルスター」
確定ボタンを押した瞬間、画面が淡い光を放った。そこに立っていたのは、穏やかな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた教官だった。
『こんばんは、明佳さん』
スピーカーから流れた声に、明佳の肩が跳ねた。あまりにも心地よく、それでいて懐かしい響き。
『初めてのトレーニングですね。……でも、その前に。今日一日の育児、本当にお疲れ様でした。あなたは今日、自分のことを後回しにして、命を繋ぐために全力を尽くした。それは、何よりも尊いことです』
「え……?」
アプリの定型文かもしれない。けれど、今日、いやこの一年、誰からも、夫からさえも欲しかった言葉が、そこにあった。
『今は、身体を動かすのが怖いかもしれません。体型が変わってしまった自分を、許せないかもしれませんね。でも、その身体は、一人の人間を育んだ“誇り”の証です。僕は、今のあなたを一度も否定しません。……さあ、深呼吸から始めましょうか』
シルヴァンのCGモデルが、画面の中で優しく手を差し伸べる。その視線は、鏡の中の冷たい自分とは違い、明佳をひとりの、価値ある人間として捉えていた。
「……っ」
気付けば、スマートフォンの画面が涙で濡れていた。誰かに、「お疲れ様」と言われただけなのに。「今のあなたでいい」と言われただけなのに。
枯れ果てていたはずの感情が、インナーマッスルの奥底から突き上げてくる。明佳は、震える手でスマートフォンを胸に抱きしめた。母である前に。妻である前に。
「……私、まだ、私でいていいのかな」
暗い寝室。画面から漏れるシルヴァンの柔らかな光だけが、明佳の頬を照らしていた。それは、現実逃避の始まり。あるいは、失われた「自分」を取り戻すための、静かな宣戦布告。
その夜、明佳は一年ぶりに、夢の中で「誰か」に名前を呼ばれる感覚を味わいながら、吸い込まれるように深い眠りに落ちていった。




