28.私は私でありたい
私は、強くなりたかった。それは、誰かに勝利するためでも、誇示するためでもない。ましてや、誰かに愛されるための「条件」として自分を改造したかったわけでもない。
ただ、私は私自身の手で、この不確かな世界の上に、揺るぎなく立っていたかった。ジムの冷たい照明の下で、初めて彼───榊木和眞を見たときのことを覚えている。胸の奥が、ほんのわずかに軋んだ。彼は黙々と、誠実に、祈るような真剣さで自分の身体を整えていた。
(ああ、この人は……)
直感的に理解してしまった。この人は、誰かのために、自分以外の何かになろうとして、なれなかった人だ。その喪失感を埋めるようにして、鉄の重みを借り、自分の輪郭を必死に繋ぎ止めている。
私がバルクアップを選んだのは、自分を律することで、初めて誰かの隣に立つ資格が得られると信じていた、私なりの「誠実さ」の形だった。職場で彼の隣に座ったとき、私は自分の心の中に落ちた静かな波紋を見つめながら、こう思っていた。
───「やっと、会えた」
私は、何も知らない。眞嶌颯華。その人の声も、表情も、彼女がどんな瞳で彼を見つめていたのかも。この世界からその記録が消え去っている以上、私が彼女の存在に触れることは物理的に不可能だ。
けれど、不思議なのだ。職場の後輩である潮﨑美咲さんが、ふとした瞬間に見せる、凛とした「整った」立ち姿。彼女が呼吸を整え、自分の身体を慈しむように扱うその所作を見るたび、私はなぜか、深い安堵を覚える。
まるで、かつてそこにいた「誰か」の意志が、正しく受け継がれた結末を見届けているような……。和眞さんの言動の端々に残る、空席を探すような視線。彼が慎重に言葉を選ぶとき、そこには「かつて守りきれなかった何か」への悔恨が滲んでいる。それらを見ていると、私の胸の奥で、説明できないほどの既視感が疼く。
(……ああ。そうか)
不遜な考えかもしれない。けれど、私は気づいてしまった。私は、誰かが彼に遺した「祈り」の形なのかもしれない。かつて彼を愛した誰かが、彼のために、必死で強く、正しく、美しくなろうと足掻いた未来。その、行き場を失った熱量が巡り巡って、私という個体の中に宿っているのではないか。
フウカ───その名前さえ知らない、次元の彼方へと還った彼女に、私は届かない。私がどれだけ自分の身体を鍛え、バルクを重ね、彼と穏やかな夜を過ごしたとしても、それは彼女の代わりにはなり得ない。
彼女が彼に与えた傷も、彼女が彼に残した温もりも、私という存在で上書きすることは、決してできない。でも、それでいい。私は、彼女が望んだかもしれないけれど、決して手に入らなかった「対等な現在」を、今、生きている。
「整える」ことに命を懸けた彼女がいたからこそ、私は「鍛え、大きくする」という極地で彼と向き合える。私と彼女は、決して交わらない。けれど、背中合わせの光と影のように、確かに繋がっている気がするのだ。
私は、誰かの想いの残滓かもしれない。でも───残滓だからこそ、できることがある。過去を奪わない。奪えない。ただ、今日の彼と、今日の自分を、ありのままに大切にする。
「和眞さん、今日はスクワット、あと一回だけ追い込みましょうか」
ジムで隣り合うとき、私は彼の心の隙間を埋めるのではなく、彼の身体を支える「筋肉」のような存在でありたいと思う。彼が過去の幻影に立ち止まったら、私も隣で、重いバーベルを背負ったまま静かに待ちたい。
私にとっての幸せは、彼と肩を並べて重い鉄を持ち上げ、共に汗を流し、その後に飲むプロテインの味を分かち合う、そんなシンプルな日常にある。整えるよりも、鍛える。守るよりも、強くする。それが、私という人間が彼に捧げられる、精一杯の愛の形だから。
無理をせず、一歩ずつ。今日も、明日も。私は、彼の隣で力強い呼吸を繰り返す。
届かない場所にいる、名もなき彼女へ。あなたの祈りは、形を変えて、今ここで彼を支えています。だから、安心して。
私は、目黒晴姫として。彼がかつて失った「信頼」という名の重みを、共に背負って歩いていく。窓の外、夜空に浮かぶ月は二つの世界を等しく照らしている。私は、今、この手に感じるバーベルの冷たさと、彼の手の温もりを抱きしめて、最高の「今日」を生きるのだ。




