27.高め合えるパートナーと
眞嶌颯華という存在が消え去った職場は、まるで熟練の調律師によって不協和音だけを取り除かれた楽器のように、ひどく静かだった。
笑い声は絶えない。電話の呼び出し音も、キーボードを叩く乾いた音も、以前と変わらずそこにある。業務もまた、滞りなく流れている。だが、和眞の意識だけが、世界のスピードからわずかに一拍遅れているような、奇妙な感覚が続いていた。
(……俺は、誰を探しているんだ?)
ふとした瞬間に隣の空席を見て、胸を突くような虚無感に襲われる。けれど、名簿を見ても、記憶の断片を繋ぎ合わせても、そこに誰が座っていたのかを思い出すことはできない。ただ、自分を「悪者」として完成させていた、重苦しくも愛おしい責任感だけが、行き場を失って浮遊していた。
「……おはようございます」
そんな“遅れ”が日常の一部になりつつあった、ある月曜日の朝のことだ。隣のデスクに、一人の女性が腰を下ろした。
「今日から派遣で入ります、目黒晴姫です。よろしくお願いします」
淡々とした、涼やかな声だった。和眞は挨拶を返そうとして、言葉を失う。
(……見たことがある)
しなやかに伸びた背筋。無駄のない立ち姿。オフィスカジュアルの服越しにでもわかる、驚くほど整った身体の軸。彼女が座る動作ひとつをとっても、そこには重力に抗わない、合理的な美しさがあった。
「……榊木です。こちらこそ、よろしくお願いします」
そう返した自分の声が、思ったよりも低く、落ち着いていることに和眞は驚いた。彼女の放つ「静謐な空気」が、彼の中にあった正体不明の焦燥を、一瞬で鎮めてしまったかのようだった。
再会は、その日の夜に訪れた。和眞が最近、自分自身の輪郭を取り戻すために通い始めたジム。かつて颯華を追い詰めた「管理」のためではなく、今の自分を「整える」ために通うその場所で、彼は再び彼女を見た。
「……あ」
パワーラックの前で、ほぼ同時に声が重なる。目黒晴姫は、タイトなトレーニングウェアに身を包んでいた。職場で見せる「静」の印象とは異なり、その肢体からは鍛え上げられたアスリートのような「動」のエネルギーが溢れている。
「……職場の、榊木さんですよね」
「……ジムの、常連の方でしたか」
一拍の沈黙。彼女は、首にかけたタオルで軽く汗を拭うと、小さく笑った。その微笑みは、媚びるような甘さは微塵もなく、ただ心地よい。
「偶然ですね。……でも、納得しました。あなたのあの、無駄のないタイピングの姿勢。ジム通いの方のそれだと思っていましたから」
「……光栄です。目黒さんこそ、スクワットのフォーム、完璧ですね。遠くから見ていて、感心していました」
それだけの会話。けれど、和眞は不思議なほどの居心地の良さを感じていた。かつての彼は、女性に対して常に「正解」を提示しなければならないという強迫観念に駆られていた。傷つけないように、嫌われないように、そして、自分の理想に当てはめるように。
だが、晴姫の前では、そうした“過剰な構え”が、まるで重いコートを脱ぎ捨てるように、自然と外れていくのがわかった。
昼は職場で、隣同士。夜はジムで、適度な距離を保ちながら。交わされる言葉は決して多くはないが、二人の距離は、雨水が土に染み込むように、ゆっくりと、確実に縮まっていった。
晴姫は、和眞を「評価」しなかった。彼がどれだけ仕事ができるか、どれだけ重いバーベルを挙げるか。そんなことよりも、彼が「今、どういう状態でそこにいるか」を、ただ静かに観察していた。
「ストイックですね、目黒さんは。妥協がない」
ある日のインターバル中、和眞が不意にそう零した。
「そちらこそ。……榊木さん、最近、呼吸が深くなりましたよね。フォームが安定して、無駄な力みが取れましたね」
それは、賞賛でも批判でもない。単なる「観察」としての報告。自分を肯定されることよりも、正しく「見られている」という実感が、和眞の乾いた心に潤いを与えた。
ある雨の夜、ジムの帰り道。並んで歩く歩道で、和眞は今まで誰にも言えなかったことを、ぽつりと零した。
「……目黒さん。俺は昔、大事な人を傷つけたことがあります。……自分の正しさを押し付けて、相手を壊すところまで追い詰めてしまった」
晴姫は、すぐには返事をしなかった。雨の音を聴くようにしばらく沈黙し、それから和眞の目を見て言った。
「それ、今でもちゃんと後悔してます?」
「……はい。忘れたことはありません」
「なら、大丈夫です」
短い言葉だった。慰めでも、無責任な肯定でもない。「後悔し続けているという事実」を、ひとつのデータとして判断した上での、前向きな裁定。
「人間ですから、筋肉と同じで、一度壊れないと分からない強度ってあります。それを知っている今のあなたは、もう同じ過ちは犯さない。……違いますか?」
和眞の胸の奥で、氷の塊が溶けるように、何かが静かにほどけていった。
「……そうですね。二度と、繰り返しません」
どちらからともなく、交際が始まったのはその一ヶ月後のことだ。告白という儀式さえも、彼ららしく、ひどく落ち着いたものだった。
「……目黒さん。俺と一緒に、これからの人生を整えていきませんか」
和眞のその言葉に、晴姫は少しだけ目を見開き、それから、今までで一番柔らかい微笑みを浮かべた。
「ええ。……無理のない範囲で。一生、続けられるペースで」
それは、燃え上がるような恋の始まりとしては、あまりに静かだったかもしれない。けれど、土台からしっかりと固められた、揺るぎない愛の始まりだった。
夜。帰り道。和眞はふと立ち止まり、夜空を見上げた。
(……ありがとう)
その感謝が、誰に向けられたものなのか、彼自身にも正確にはわからない。去っていった、名前も思い出せない誰か。彼女がいたからこそ得た、この「痛み」という名の教訓。そして今、隣で穏やかな呼吸を刻んでいる、かけがえのない人。
和眞は、晴姫の手をそっと握った。かつてのように強く握りしめ、自分の方へ引き寄せようとはしない。ただ、彼女の体温と、心地よい距離感を尊重するように。
眞嶌颯華が異世界でアッシュを選び、己の生を謳歌しているように。榊木和眞もまた、この現実世界で、自分自身の人生を「整え」始めていた。彼の物語は、ここで終わるわけではない。
二つの世界で、それぞれの魂が、最も正しい場所へと収まっていく。静かに、穏やかに。彼はもう一度、深く呼吸をし、新しい日常へと歩み出した。




