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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第8章 知らないまま選んだ幸福【余白編】

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26.朱き双璧、慈愛のアイナ


 午後のジムは、いつもより少しだけ、心地よい緊張感にざわついていた。普段はストイックに鉄塊を上げる会員たちも、どこかそわそわとして入口付近に視線を投げている。


 理由は明白だった。入口に立つ一人の女性───。彼女がそこに立っているだけで、ジムの空気が一段階、密度を増したかのように変わっていたからだ。


「お邪魔しまーす。アッシュ、いるかしら?」


 胸元まで届く、緩やかなウェーブのかかった鮮やかな赤髪。窓から差し込む陽光を受けて艶やかに揺れるその髪とは対照的に、彼女の声は春の微風のように穏やかで、聞く者を包み込むほどに優しかった。フウカは、作業の手を止めてその女性を凝視した。


 しなやかな筋肉が、無理なく整った肢体に驚くほど自然に馴染んでいる。肩のラインから指先、そして足首に至るまで、主張しすぎないのに、確かな機能美を感じさせる身体。それは「威圧感のある強さ」というよりは、見ているだけで「生命の躍動に安心する」ような、究極の「整い」を具現化した体つきだった。


(……え? あの方が、アレクさんの……?)


 フウカは思わず、ぽかんと口を開けた。前節、アッシュから「アレクの理想のタイプ」として名を挙げられた女性。もっと険しい、山のような女傑を想像していたが、目の前の女性はあまりに気高く、美しい。


「こんにちは。あなたがフウカちゃんね?」


 にこりと、大輪の向日葵が咲いたような微笑みを向けられ、フウカは心臓が跳ねるのを感じて慌てて背筋を伸ばした。


「は、はい! フウカです! ええと、お会いできて光栄です!」

「ふふ、元気でよろしい。礼儀正しい子ね」


 満足そうに頷く彼女こそが、アイナ・ホロウフィールド。この国の「筋肥大バルクアップ部門」を束ねる双璧の一人。同じく双璧として並び立つ武骨な男・グレンと共に、数多の英雄きんにくびを育て上げてきたベテラントレーナーである。


「あなた、姿勢がとても綺麗ね」


 アイナが歩み寄る。その足取りには一切の無駄がなく、重力を感じさせない。自然な動作でフウカの肩に手が置かれた。その触れ方は羽毛のように柔らかかったが、フウカの皮膚越しに伝わる指先の芯には、鋼のような確かな筋の感触があった。


「インナー、ちゃんと使えてるわ。腹圧の入れ方も……ふふ、アッシュが相当厳しく見たのかしら?」

「えっと……はい。最初は呼吸だけで何日もやり直しさせられました」

「いいトレーナーよ、彼。不器用で、言葉の選び方が少し極端だけど……誰よりも優しくて、繊細でしょう?」


 アイナの言葉に、フウカの胸がじんわりと温かくなる。アッシュの指導の根底にある慈しみを、この人は深く理解しているのだ。ちょうどそのとき、ジムの奥から、苦虫を噛み潰したような顔のアレクが現れた。


「……姉上。何しに来たんですか、わざわざ」

「あら、迎えに来たに決まってるじゃない。あなたがいつまでも、アッシュの『整え』の邪魔をしたら悪いでしょう?」

「邪魔なんてしてねえよ!」


 凄むアレクだったが、アイナは動じない。


「“戻ることになってた”でしょ? そもそも、あなたはこっちのジムには合わないのよ。がさつだから。……グレンが待ってるわよ。彼の右腕として活躍している、新人のナツメに追い抜かされないようにしっかりしなさい」


 その名を聞いて、フウカは少しだけ意識を向けた。グレン。そして、ナツメ。グレンの指導のもと、瞬く間に頭角を現したという新進気鋭の女性トレーナー。彼女もまた、この世界の誰よりも深く、身体と心の「再生」を理解している一人だと噂に聞いていた。




 アイナはアレクの肩をポンと軽く叩き───それはまるで、しつけの悪い大型犬を嗜める飼い主のようだった───再びフウカへ向き直った。


「フウカちゃん。よかったら、私の所属してるジムにも遊びに来てちょうだい。アッシュの『美しき中庸』も素晴らしいけれど、身体を大きく、強く、逞しくしていくのも……自分の可能性を広げるという意味では、悪くないものよ?」


 フウカは目を丸くし、それから思わず吹き出すように笑ってしまった。かつての自分なら、「大きくする」という言葉に恐怖を感じて逃げ出していたかもしれない。けれど、アイナや、彼女が信頼を置くグレンやナツメたちが体現する「強さ」は、自分を閉じ込める鎧ではなく、自分を解放するための力なのだと素直に思えた。


「……ありがとうございます。いつか、考えてみます」

「ふふ、待ってるわ。あなたなら、素敵な筋肉がつきそうね」


 そのやり取りを見て、アレクは重々しい溜め息をついた。完全に「回収対象」としての扱いに、指導者トレーナーとしての威厳が霧散している。


「……俺、完全に回収対象か。面目ねえ」

「当然でしょう? さあ、行くわよ。皆があなたの『爆発的パワー』を待ってるんだから」


 ジムを去る直前、アイナはふと、フウカの頭にそっと手を置いた。


「あなた、とてもいい目をしてる」


 囁くような、けれど魂に響くような声だった。


「自分の足で立つことの意味を知った人は、どこにいても、どんな困難があっても大丈夫。自信を持ちなさい」


 その言葉は、なぜかフウカの胸の奥に、くさびのように静かに、深く残った。現実世界から消え、この世界で生きていくことを選んだ自分の決断を、この全知の指導者は肯定してくれたのだ。フウカは、二人の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、小さく息を吐いた。


「……すごい人だったな」


 アッシュが背後から歩み寄り、呟くフウカの隣に並んだ。


「……嵐が去ったな」

「アッシュさん。アイナさん、すごく素敵な人ですね」

「ああ。あいつもグレンも、強さを『愛』だと思ってるからな。……ま、俺の『整え』とはまた別の宗派だが、根っこは同じだ」


 フウカは頷き、再び自分の身体に意識を戻した。アイナに褒められた姿勢を崩さないよう、一歩、踏み出す。この世界には、アッシュだけでなく、アイナのように、自分を導いてくれる温かい光がいくつも灯っている。そう確信できた、穏やかな午後のひと時だった。

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