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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第8章 知らないまま選んだ幸福【余白編】

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25.執着からの解放


 ジムの片隅、夕方の柔らかな西日が差し込むストレッチスペース。そこは、激しいトレーニングの合間に訪れる、束の間の静寂が許された場所だ。アレク・ホロウフィールドは、床に座り込み、丸太のように逞しい腕を組んで、地響きのような唸り声を上げていた。眉間の皺はあまりに深く、彫刻の溝のようになっている。


「……いや、解せん。どうしても納得がいかんのだ」


 低く、重厚な独り言。通りかかったフウカは、思わず足を止めた。かつては彼が近くにいるだけで、心臓を鷲掴みにされるような恐怖と、呼吸の浅さを感じていたものだが、今の彼女は違う。背筋をスッと立て、重力に対して正しく配置された身体を持つ彼女にとって、アレクの威圧感はもはや「克服すべき課題」ですらなかった。


「何がそんなに解せないんですか? アレクさん。フォームの崩れなら、私がチェックしましょうか?」


 フウカが冗談めかして声をかけると、アレクは巨大な熊が困惑したような顔で、ゆっくりと顔を上げた。


「……フウカか。いや、身体のことではない。俺自身の『脳』の問題だ」

「脳……ですか?」

「ああ。俺が、なぜあんなにお前に執着していたのか……それが分からんのだ。以前の俺は、お前の顔を見るたびに、何故か無性に苛立ち、同時に目が離せなかった。お前の不健康な細さを呪い、食えと言い、怒鳴り散らし……。今思い返すと、自分でも気味が悪いほど、お前の動向ばかりを気にしていた気がする」


 アレクは大きな溜め息をつき、壁に背を預けた。フウカは一瞬だけ、現実世界で自分を追い詰めた元恋人・和眞の面影を彼に重ねた。けれど、今の彼女にはアレクの言葉の裏にある「不器用な熱量」が透けて見えた。


「それ、実は私も不思議でした。アレクさんに詰め寄られるたび、どこかで『この人、本当は私を助けたいのか、それとも自分の理想を押し付けたいだけなのか、どっちなんだろう』って。……正直、怖かったですし」

「……だろうな。俺でも怖いわ」


 アレクは自嘲気味に鼻を鳴らした。


「だが、不思議なことに……最近な、頭の中が妙に静かなんだ。前みたいに、理由もなくお前のことが引っかかる感じが、霧が晴れるように消えちまった。今はこうして普通に話していても、心拍数が上がることもない」


 フウカは確信した。現実世界で和眞と向き合い、彼を「悪者」にして逃げていた自分を認め、互いを許し合ったあの一夜。その瞬間に生じた「因縁の解消」が、こちら側の世界のアレクにも波及したのだ。


「アレクさん。……私も、謝らなきゃいけないことがありました。アレクさんの言葉を、全部『攻撃』だと受け取って、反射的に心を閉ざしていたんです。あなたの言葉の奥に、不器用なりの心配があったかもしれないのに。……私の心に、自分を愛する余裕がなかったせいです。ごめんなさい」


 アレクは目を瞬かせ、意外そうに肩をすくめた。


「……よせ。俺も、お前の本当の姿を見ていなかった。……今ならわかる。俺は、お前に『誰か』の影を重ねていたんだ。勝手に苛立ち、勝手に救おうとしていた。その『誰か』の正体すら、自分では分からなかったがな」

「───なるほど、なるほど。実に美しい和解だ。涙が出そうだよ」


 軽やかな、けれど確実に空気をかき乱すような声が、二人の間に割り込んだ。振り返ると、ストレッチポールを軽々と肩に担いだアッシュが、至極楽しそうな、悪魔のような笑みを浮かべて立っていた。


「アッシュ、お前……いつからいた」

「お前が自分を気味悪がってたあたりからかな。アレク、お前がフウカに執着してた理由? 専門家として、科学的に、そして残酷なまでに心理的に解説してやろうか?」


 アッシュは悪戯っぽく笑いながら、アレクの目の前に歩み寄った。


「単純だよ。お前の『理想の女性像』と、当時のフウカの『状態』があまりにも真逆だったからだ。お前は無意識に、フウカを『自分の好みの対極にある、許しがたいエラー』として認識していたんだよ。……そうだよな? お前の好きなタイプは───」


 アッシュは間髪入れず、とどめの一撃を放った。


「───身長170cm前後、しなやかでありながら適度に厚みのある筋肉を纏った、健康美溢れる女丈夫。……平たく言えば、お前の実の姉、アイナさんだろう?」


 一瞬、ジムの空気が凍りついた。アレクは石像のように固まり、次の瞬間、顔面が沸騰したかのように真っ赤に染まった。


「お、お、おい! 何をっ、デタラメをっ……!」

「デタラメじゃないさ。お前が蔵書の裏に隠してた『大陸筋肉美神・ポスター集』、あれを俺が見落とすとでも? お前はアイナさんのような『強くて美しい女性』を理想の完成形として魂に刻んでいる。だからこそ、当時のフウカの『今にも折れそうな脆さ』が、お前の本能をひどく逆なでしたんだ。理想と真逆の存在が、あんなに近くにいたんだからな」


 フウカは、あまりの衝撃的な事実に目を丸くした。


「えっ、アレクさん……。筋肉質な女性が、タイプだったんですか……?」

「違う! い、いや、違わんが! 姉上はあくまで指導者トレーナーとしての尊敬であって! ……ああ、もう!」


 アレクは頭を抱え、床に崩れ落ちるようにして溜め息をついた。アイナ・ホロウフィールド。アレクの姉であり、フウカとは面識こそないものの、その界隈では有名な実力者だ。しなやかで力強い、生命力そのもののような彼女の体型こそが、アレクの正義であり、審美眼の基準だったのだ。


「……フウカ。俺は、……情けない男だ。お前の不器用さを、俺の好みに照らして否定していただけだったのかもしれん」


 落ち込むアレクを見て、フウカは堪えきれずに吹き出した。


「あはは! いいじゃないですか、アレクさん。分かりやすくて安心しました。……でも、今の私はどうですか? アイナさんみたいに強くはないけど、今の私なら、アレクさんの『審美眼』にも合格できますか?」


 アレクは顔を上げ、じっとフウカを見つめた。不自然な細さは消え、その肌には艶が、瞳には意志が宿っている。


「……フン。まぁ、合格だ。今の君は、自分の身体の主人になっている。……もう、見ていて苛立つことはない」


 アレクの言葉から、トゲが完全に消えた。それは、彼の中の「未練の筋肉」が、綺麗に解放リリースされた瞬間だった。


 アッシュは満足そうに腕を組み、二人を見下ろした。


「よかったな。これでジムの空気も完璧に『整った』。固まったままの心じゃ、いいパフォーマンスは発揮できないからな」

「うるさい、この野次馬野郎。次はお前の性癖を暴露してやるからな」

「おっと、俺の好みは目の前で一番弟子をやってるよ。隠す必要もない」


 アッシュのさらりとした告白に、今度はフウカが真っ赤になる番だった。


「ア、アッシュさんまで……!」


 夕暮れのジムに、賑やかな笑い声が響き渡る。執着が解け、誤解が消え、それぞれが本来あるべき場所へと戻っていく。現実世界での和解が、こちら側の世界の歪みをも癒し、新しい関係性を紡ぎ出す。フウカは、自分の胸にそっと手を当て、深く呼吸をした。かつて自分を縛っていた影は、もうどこにもない。

 

 夕陽に包まれた三人の影が、ジムの床に長く伸びている。それは、失われたものへの決別と、これから始まる「本当の意味での二人三脚」の、確かな幕開けだった。

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