24.呼吸のゆくえ
眩い純白の光が収束し、世界が色彩と重力を取り戻していく。鼻をくすぐる鉄の匂い。素肌に触れる、清潔で少し硬いリネンの感触。そして何より、自分を粉々に砕かんばかりに抱きしめる、圧倒的な熱。
「……っ、フウカ……!」
耳元で、嵐のような荒い呼吸が響く。アッシュ・ナイトハルト。彼は、かつてないほど取り乱した様子で、フウカの背中に指先を食い込ませていた。
「……ただいま、アッシュさん」
フウカは、彼の厚い胸板に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。アッシュの胸が高鳴り、その鼓動が自分の肋骨まで震わせる。
「……本当に、戻ってきたんだね。あちらの世界に、君を繋ぎ止めるものはもう何もないのだな」
アッシュが顔を上げ、フウカの肩を掴んでその瞳を覗き込む。青い瞳には、隠しきれない独占欲と、それを上回る深い情愛が渦巻いていた。
「ええ。全部、置いてきました。後悔も、名前も。……今の私は、あなたの前だけに存在する『フウカ』です」
その言葉が最後の一線を超えさせた。アッシュの大きな手がフウカの頬を包み込み、引き寄せる。
触れ合った唇から、互いの魂が混ざり合うような、深く、濃密な口づけ。それは、現実世界という「幻」を振り切り、異世界という「真実」を二人で選び取った契約の儀式だった。
アッシュの唇が、熱が、フウカの身体の隅々まで「ここは自分の場所だ」と刻み込んでいく。フウカもまた、彼の逞しい首筋に手を回し、その強靭な生命力を全身で受け止めた。もう、スマホの画面越しではない。二人の呼吸は、完全に一つのリズムへと重なった。
一方、現実世界。「眞嶌颯華」という存在が消去されたオフィス。榊木和眞は、隣の空席に置かれた一輪の、瑞々しい花の香りが残っているような錯覚に陥っていた。彼の記憶からも、彼女の詳細は失われていた。どんな顔で、どんな声だったか。けれど───。
(……俺は、誰かを、救いたかったんじゃなかったか)
胸の奥に、言葉にならない「感謝」と「安堵」だけが、消えない傷跡のように残っている。引き出しを開けると、そこには自分のために書かれたような、完璧に整理された業務マニュアルがあった。署名はない。けれど、その整った文字を見つめるたび、和眞の目には理由のない涙が浮かんだ。
世界から記録は消えても、彼女が和眞に遺した「自分を愛してほしい」という祈りだけは、彼の細胞の中に、消しきれない残像として刻み込まれていた。
異世界のジム。朝の静謐な空気の中、二人は並んでマットの上にいた。アッシュは、もはや厳しいコーチとしての顔だけではない。
「……フウカ、左の骨盤がわずかに浮いている」
「あ、本当だ……。アッシュさんが触ると、すぐにわかりますね」
アッシュが背後から回り込み、フウカの腰に大きな手を添える。指導にかこつけて、彼は何度も彼女の肌に触れ、その感触を確かめる。フウカもまた、彼の指先が触れるたびに身体が内側から熱を帯びるのを感じ、幸せな溜息を漏らした。
「……君をこうして、直接調整できる。これ以上の贅沢はないな」
アッシュはフウカの項に鼻先を寄せ、深くその香りを吸い込んだ。
「ねえ、アッシュさん。私、これからもあなたの隣で、みんなを整える手伝いをしたいな。……私みたいに、迷子になっている誰かのために」
アッシュは一瞬、彼女を独り占めしたい欲望を抑えるように目を閉じ、それから優しく微笑んだ。
「……ああ。君はもう、立派なパートナーだ。俺の最高傑作として、この世界の光になればいい」
ジムの窓から、二つの月が重なるようにして昇り始める。
現実を捨て、魂の帰還を選んだフウカ。次元を裂き、愛する者を迎え入れたアッシュ。二人の間には、もう境界線など存在しない。完璧に整った心と身体。交わされる熱い視線と、重なり合う深い呼吸。
選び取ったこの楽園で、二人は永遠に、高め合う愛を刻み続けていく。




