23.純白の帰還
その朝、目覚めた颯華は、自分の身体が「透き通っていく」ような感覚を抱いた。鏡の前に立っても、そこに映る自分はどこか遠い。実体は確かにそこにあるはずなのに、世界の解像度が自分を認識することを拒み始めているようだった。
(……ああ、そうか。いよいよなんだ)
彼女は静かに微笑んだ。それは、アッシュとの同期率が臨界点を超え、現実世界における「眞嶌颯華」という情報の枠組みが崩壊を始めた合図だった。
職場へ向かう道すがら、颯華は目に映るすべての光景を、慈しむように見つめた。通勤路の街路樹、信号待ちをする人々の雑踏、見慣れたオフィスビルの外観。
これから自分が向かう場所には、これらはない。けれど、この世界で悩み、苦しみ、そしてアッシュの教えによって自分を愛することを知った日々こそが、彼女を「完成」させたのだ。
オフィスに着くと、彼女はいつになく穏やかな手つきでデスクを整理した。引き継ぎ資料は完璧に整えられている。たとえ資料が消えるとしても、この世界に悔いが残らないようにした。後輩の美咲には、昨日、自分がいなくなっても困らないだけの「身体と心の整え方」のすべてを伝えた。
「眞嶌さん、なんだか今日の雰囲気……すごく、神々しいですね」
美咲が、不思議そうに尋ねてくる。
「そう?……美咲さん。これからも、自分の呼吸を信じてね。あなたは、あなたでいるだけで十分、素晴らしいんだから」
それが、彼女に遺す最後のアドバイスだった。
昼休み。颯華は和眞を呼び出し、誰もいない屋上へと向かった。和眞は、消え入りそうなほど透明な空気感を纏う颯華を、恐れをなしたような目で見つめている。
「榊木くん。……最後に、一つだけ。あなたと出会えたこと、感謝しています」
「……最後? 何を言ってるんだ、眞嶌」
「あなたは私を壊した人じゃない。私が自分と向き合うきっかけをくれた、大切な人でした。……もう、自分を責めないで。あなたはあなたの道で、強く、健康でいてください」
颯華は一歩踏み出し、和眞の手を優しく握った。
「さようなら、榊木くん。……私のこと、もう思い出さなくてもいいからね」
「……待て、眞嶌! お前、何を───」
和眞が叫ぼうとした瞬間、颯華の姿が陽炎のように揺れた。彼の記憶の中で、颯華という女性の輪郭が、砂浜の文字が波に洗われるように、急速に薄まっていく。
夕刻。オフィスを出る際、彼女が通った場所から「眞嶌颯華」の形跡が消えていった。タイムカードの記録、名簿の文字、同僚たちの記憶に残る彼女の笑顔。
ナツメがそうであったように、異世界と完全なる統合を果たす者は、現実世界における因果律から除外される。それは「死」ではなく、初めから存在しなかったことにされる、究極の転生だった。彼女は自分の部屋に戻り、静かに床に座った。家具も、服も、写真も、すべてが白い光に飲まれて消えていく。
最後に手元に残ったのは、あのスマートフォンだけだった。
『――Synchronization rate: 99.9%.』
「……準備は、できたよ。アッシュさん」
彼女は、現実世界における「眞嶌颯華」という名前を、自ら手放した。未練はない。後悔もない。彼女がこの世界で成し遂げたことは、誰の記憶に残らずとも、彼女が救った美咲の身体の中に、和眞が取り戻した健康の中に、確かな種として遺っている。
不意に、部屋の壁が、天井が、崩れ落ちるように光の粒子となった。圧倒的な純白の空間。そこは、現実でも異世界でもない、境界線のゼロ地点。
『……来い、フウカ』
あちら側から、扉をこじ開けるようにして伸びてくる、逞しく、それでいて震えるほど愛おしい「手」。現実世界の物理法則を無視し、魂の引力だけで引き寄せられる感覚。
「……アッシュ……!」
彼女は、その手を力強く掴んだ。その瞬間、現実世界から「眞嶌颯華」の痕跡は一欠片も残さず消滅した。部屋は空室となり、記録は消え、人々の記憶からも彼女は消え去った。
しかし。光の向こう側、あの静謐なジムの中。一人の男の腕の中に、かつてないほど「完璧に整った」一人の女性が、確かに舞い戻った。
「……ただいま、コーチ」
「……遅いぞ、フウカ」
交わされる呼吸。重なる心音。ここから、二人の「永遠」が、本当の意味で動き出す。




