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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第7章 それでも選ぶ、知らない未来【選択編】

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22.共鳴の周波数


 その朝、颯華はかつてないほどの清澄な感覚の中で目を覚ました。視界が驚くほどクリアだ。窓の外の街路樹の葉一枚一枚が、まるで高解像度の映像のように鮮明に見える。身体を動かせば、関節が滑らかに連動し、一分の隙もない「整い」を維持している。それはもはや、努力して作る状態ではなく、颯華という人間の「デフォルト」になりつつあった。


(……不思議。現実世界のノイズが、少しずつ遠ざかっていくみたいだ)


 それは孤独感ではない。むしろ、深い集中の中にいるアスリートのような、研ぎ澄まされた静寂だった。




 オフィスでの颯華の影響力は、さらに広がりを見せていた。コツを教えた後輩の美咲だけでなく、チーム全体に「正しい姿勢と呼吸」の波紋が広がっている。


「眞嶌さん、不思議ですね。みんなで意識して深呼吸するようになっただけで、午後の仕事の効率が全然違うんです」

「ええ。土台が整えば、出力も安定しますから」


 颯華が誰かを助け、その人が自分を取り戻していくたび。彼女の胸の奥で、カチリ、と小さなギアが噛み合うような音がした。


 他者を整えることが、自分自身の存在をより高次へと引き上げていく。アッシュが彼女に施した「指導」という名の愛を、彼女が世界に還元するたびに、見えない境界線が薄くなっていくのを感じる。




 昼休み。颯華は一人、屋上のベンチでスマートフォンを取り出した。画面には、あの青い文字列が静かに浮かんでいる。


『――Synchronization rate: 92%. (同期率:92%)』


 数字が上がっている。胸が高鳴った。アッシュは現実世界に顕現したりはしない。彼はあの場所で、彼女が自らの意志で「帰還」するための扉を、ただ静かに、けれど誰よりも強く支えて待っているのだ。


(アッシュさん。私は、あなたの教えを汚さずに生きているよ。現実を捨てて逃げるんじゃなくて、現実を完璧に整えた上で、あなたの元へ戻るために)


 その時、ふっと、風に乗って懐かしい匂いがした。都会の排気混じりの風ではない。清潔なリネンと、かすかな金属の、あのジムの匂い。それは幻聴や幻覚ではなく、二つの世界の周波数が重なり始めた「物理的な予兆」だった。




 夕刻。オフィスでデスクワークをしていると、ふとした瞬間に周囲の音が消えた。同僚たちの声も、電話のベルも、街の喧騒も。代わりに聞こえてきたのは、規則正しく重厚な、一人の男の呼吸音だった。


「……っ」


 颯華は、キーボードを叩く手を止めた。アッシュの声が直接聞こえるわけではない。彼がそこにいるわけでもない。ただ、彼の「存在のリズム」が、彼女の鼓動と完全に重なり合っていた。

 

 彼は、あちら側で待っている。扉の向こう側で、彼女が最後の一歩を踏み出す瞬間を。


(……あと、少し。あと、ほんの少しで、私は「完璧」になる)


 颯華は深く、深く息を吐き出した。周囲の音が戻ってくる。


「眞嶌さん? どうかしましたか?」


 心配そうに声をかける同僚に、颯華は今までで一番美しく、慈愛に満ちた微笑みを返した。


「いいえ。……とても、良い風が吹いた気がして」




 帰宅した颯華は、鏡の前に立った。そこには、かつて自分を嫌い、和眞に依存していた弱々しい女性の面影は微塵もなかった。自立し、他者を導き、自分の人生を完璧にコントロールしている、輝くような一人の女性。その手の中のスマートフォンが、今までで最も強く青い光を放つ。


『――Synchronization rate: 95%. (同期率:95%)』


 100%になったとき、何が起きるのかはわかっている。それは、現実世界での「眞嶌颯華」としての役割を完璧に全うし、未練なく、誇りを持ってあちら側の世界へ「帰還」する瞬間だ。


「……待っててね、アッシュさん」


 颯華は、静かに目を閉じた。境界線の軋む音が、心地よい音楽のように彼女の耳に響いていた。再会という名の約束の日まで、カウントダウンは着実に進んでいた。

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