05.筋肉は嘘をつかない
翌朝。ナツメは、日の出の光が石畳を照らす前に目を覚ました。目覚まし時計などない。だが、身体が自然と起き上がる。
「……準備運動」
呟いたときには、もう床に足がついていた。足裏で床を捉え、軽く膝を曲げる。股関節が滑らかに動き、背骨が一つずつ正しく積み上がっていく感覚。
「……順応、早すぎ」
小さく笑いながら深呼吸をする。胸郭が広がり、酸素が全身の筋細胞へ行き渡る。
前世の夏夢なら、まだ布団の中で丸まって現実逃避をしていた時間だ。けれど今のナツメは動くこと、そして「彼」に会うことを細胞レベルで欲していた。
トレーニングホールは、静寂に包まれていた。だが、そこにはすでに先客がいた。
「早いな」
低く、空間を震わせる声。
グレンだ。
軽装のトレーニングウェアから覗く肩から腕にかけての筋肉が、朝の光を受けて鮮明な輪郭を描く。皮膚の下で、彫刻のように削ぎ落とされた筋線維が脈動している。
「……おはようございます、グレン先輩」
「声が出ている。悪くない」
それが、彼なりの合格点。
「今日は新人研修二日目だ。基礎筋力の底上げを行う。逃げ場はないぞ」
グレンの鋭い瞳に見据えられ、ナツメの胸が高鳴った。
――来た。
待ちわびていた、本物の「しごき」だ。
「まず、プランク」
指示され、ナツメは迷いなく床に構える。前腕を床につき、つま先で身体を支える。腹部に意識を集中させると、内側から一本の鋼が通ったように身体が安定した。
「……最初から、その角度か」
グレンがナツメの真横に膝をつく。至近距離。彼の体温と、かすかな汗の匂いがナツメの鼻腔を突く。
「肩甲骨、寄せすぎるな。前鋸筋で床を押せ」
次の瞬間、背中に大きな手が触れた。指先が、肩甲骨の内側をなぞる。
「……っ」
熱い。だが、そこに意識を向けるだけで、筋肉が魔法のように応える。
「そうだ。呼吸を止めるな。……お前の身体は、実に見事にこちらの指示に呼応するな」
グレンの声が、耳元で低く響く。三分が経過し、筋肉が焼けるように震え始める。
「……理由は何でもいい。結果が出るならな」
グレンの口角が、ほんのわずかに上がった。
五分間。
終了の合図で膝をついたナツメに、グレンは短い、けれど確かな賞賛を送った。
「……よくやった」
その一言が、前世のどんな褒め言葉よりも、ナツメの心を深く満たした。
午後は、指導のシミュレーションに入った。
「ナツメ、俺の補助として入れ。対象の筋肉を『視て』、修正しろ」
ホールにいた初心者の会員に対し、ナツメは自然と歩み寄った。
「まず、姿勢から確認しましょう。肩、少し下げますね」
相手の肩に軽く触れた瞬間、ナツメの中の「感覚」が爆発した。どこの筋出力が足りないか、どの関節が窮屈そうにしているか。
画面越しにグレンのフォームを解析し続けてきた「オタクの審美眼」が、実戦的な指導力として発露する。
「腹部を意識して。息を吐きながら……そう、そこです」
ナツメの的確な補助により、会員の動きが劇的に改善される。少し離れた場所で、腕を組んでそれを見ていたグレンは、愕然としていた。
(……初めての指導で、あれほど迷いなく核心を突くか?)
その立ち振る舞い。その「身体は裏切らない」と信じ切っている真っ直ぐな瞳。記憶の底にある、誰かに、あまりにも似ている。
「ナツメ」
会員が去った後、グレンが彼女の前に立った。
「……教え方、悪くない。お前は相手の筋肉を、ちゃんと『視て』いるな」
「……はい」
「自分がどう動くかだけの人間には、できないことだ」
グレンは一瞬、何かを言いかけ、そして押し黙った。その表情には、指導者としての厳しさと共に、どこか切なげな「探し物」をしているような色が混じっていた。
一日の終わり。サーキットトレーニングで限界まで追い込まれ、ナツメはその場に座り込んだ。全身から汗が噴き出し、視界が白く霞む。
「……よくやった」
頭上から声が降り、視界に大きな手が差し出された。前腕には太い血管が走り、手のひらにはたゆまぬ鍛錬の証である「マメ」が硬く並んでいる。
一瞬ためらい、ナツメはその手を取った。引き上げられる瞬間、圧倒的な力で自分の身体が浮き上がる。
「無理は、していないな」
「……はい。……きょ、先輩のおかげ、です」
グレンは、ナツメの手を離した後も、しばらく自分の掌を見つめていた。
(この感触……この、筋肉の反応……)
彼は知らない。自分が寂しげに呟いた『来なくなった会員』が、今、目の前で自分の手を握りしめていることを。
「ナツメ、明日も早い。しっかり栄養を摂り、眠れ」
「はい!」
アイナが遠くから「二人とも、お疲れー!」と手を振る。ナツメは、グレンの背中を追いかけながら胸の奥で誓う。
───認められたい。
ただの新人としてではなく。かつて、画面越しにあなたを救いたいと思っていた、あの日の私として。
筋肉が熱を持つように、ナツメの想いもまた、逃げ場のない熱を帯びて膨らんでいく。この恋は、どんな重量級のバーベルよりも、重く、確かな手応えを持っていた。




