21.共鳴の波紋
その日、颯華は会社の健康診断の結果を受け取っていた。数値はすべてが適正。かつて彼女を苦しめていた貧血や栄養不足の影は微塵もない。
「……よし」
診断書をカバンに仕舞い、颯華は颯爽とオフィスを歩く。その足音は静かだが、床を捉える確かな力強さがあった。
ふと、オフィスの隅でうずくまるようにしてデスクに向かっている後輩、潮﨑美咲の姿が目に入った。肩は内側に巻き込まれ、呼吸は浅い。その姿は、かつてスマホの画面越しに自分を追い詰めていた、かつての颯華そのものだった。
「美咲さん、少しだけ、休憩しませんか?」
颯華が声をかけると、美咲は力なく顔を上げた。
「あ……眞嶌さん。すみません、なんだか最近、身体が重くて。ダイエットしてるんですけど、全然結果が出なくて、余計に疲れちゃって……」
颯華は、美咲の隣に椅子を引いて座った。
「美咲さん。身体を『削る』前に、まずは『位置』を戻してあげませんか?」
「位置……?」
「ええ。今の美咲さんは、肋骨が閉じて呼吸が入らなくなっているだけ。少しだけ、私の言う通りにしてみて」
颯華は、アッシュから教わった言葉を、今の自分の言葉に変えて伝えていった。座ったままでもできる、骨盤の立て方。胸郭を開くための、魔法のような指先の意識。
「……あ、すごい。肺に空気が、勝手に入ってくる……」
美咲の瞳に、パッと光が宿った。
「身体が整えば、代謝も勝手に上がります。無理に追い込む必要なんてないんですよ。自分を痛めつけるんじゃなくて、慈しんであげて」
その言葉を口にした瞬間、颯華の背筋を、心地よい電流のようなものが走った。
(ああ、そうか……。アッシュさんが私にしてくれたのは、これだったんだ)
教わる側から、伝える側へ。アッシュの意志が、自分を通じて現実世界に溶け出していく感覚。それは、失った悲しみを塗り替える、圧倒的な「肯定感」だった。
その夜、颯華はジムでのトレーニングを終え、心地よい疲労感と共に帰宅した。シャワーを浴び、鏡の前で自分の身体を確認する。無駄のない、しなやかな筋肉。アッシュと共に作り上げたこの「器」は、今や現実世界でも多くの人を惹きつける光を放ち始めている。
「……アッシュさん。私、あなたの教えを、ちゃんと広めてるよ」
颯華は、お守り代わりに持ち歩いている「あのスマートフォン」を取り出した。和眞に「相手がいる」と断言されてから、彼女はこのスマホを「過去の遺物」ではなく、「未来への中継器」だと信じている。
その時だった。充電器に繋いでいないので、電源も入らないはずのその端末が、掌の中でドクンと一度だけ震えた。
「……え?」
画面の奥、深い闇の中から、青い光の粒子が立ち上る。それは以前のような一瞬の点滅ではない。まるで誰かの呼吸に同期するように、ゆっくりと、力強く明滅を繰り返している。そして、画面に一列の文字列が浮かび上がった。
『――Synchronization rate: 88%. (同期率:88%)』
それはアプリのUIに似ていたが、以前よりも遥かに精密で、生命感に満ちたデザインだった。
「……繋がってる。やっぱり、幻じゃなかったんだ」
颯華の目から、一滴の涙がこぼれ、画面に落ちた。その雫がレンズとなって、青い光を美しく拡散させる。
彼女が自分を磨き、他者を助け、この世界で正しく「生きる」ことが、異世界にいるアッシュとの同期を強めている。再会は「奇跡」を待つことではない。自分の手で、その確率を積み上げていく「ミッション」なのだ。颯華はスマホを強く抱きしめ、夜空を見上げた。その瞳には、もはや揺らぎはない。
「見てて、コーチ。すぐに100%にしてみせるから」
確信に満ちた彼女の鼓動が、青く光るデバイスと、静かに共鳴し合っていた。




