20.境界線の向こう側
昼休みのオフィス街。春の柔らかな陽光が降り注ぐテラス席で、颯華は玄米のおにぎりを頬張っていた。向かい側に座っているのは、榊木和眞だ。かつての二人の間にあった、息の詰まるような「関係」はもうどこにもない。
「……だから、大胸筋の厚みだけを求めても、肩甲骨の可動域を殺してしまったら本末転倒なんだよ」
和眞が、プロテインシェイカーを傍らに置き、熱っぽく語る。彼は彼で、筋肥大の奥深さに目覚め、最近はトレーニング理論の追求に余念がない。
「わかります。でも、私はやっぱり『整える』のが先だと思うな。インナーマッスルが抜けた状態で重いものを持っても、関節を痛めるだけですよ」
颯華が冷静に、けれど楽しげに反論する。今の二人は、かつての「理想の押し付け合い」ではなく、お互いのメソッドを尊重し合う「トレーニング仲間」のような空気を纏っていた。和眞は、颯華のまっすぐな瞳を見て、ふっと穏やかに目を細めた。
「……今の眞嶌さんは、本当に理論がしっかりしているな。俺も負けていられない」
そんな二人の様子を、遠巻きに眺めていた同僚の女性たちが、ニヤニヤしながら詰め寄ってきた。
「ちょっとちょっと! 復縁おめでとうって言ってもいいの?」
「最近の二人、付き合いたてカップルより雰囲気いいじゃない。やり直さないの?」
唐突な冷やかしに、颯華は苦笑いを浮かべた。
「いえ、そんなんじゃ───」
否定しようとした言葉を、和眞の低く、静かな声が遮った。
「……いや。復縁はありえません」
和眞は驚くほど真剣な顔で、周囲を真っ直ぐに見据えた。
「眞嶌には、もう相手がいますから。俺なんかよりずっと厳しくて、……ずっと、彼女を深く理解している男が」
一瞬、空気が凍りついた。
「……えっ!?」
「えええええ!? 誰!? どこの部署!?」
静寂のあとに爆発的な騒ぎが起きる。同僚たちは食いつくように颯華に詰め寄った。
「ちょっと榊木くん!? 何言ってるの!」
颯華は顔を真っ赤にして立ち上がった。和眞は、かつて彼女を追い詰めた加害者としての自分を完全に清算し、今は彼女の「新しい道」を守る戦友のような、清々しい表情を浮かべている。
「……嘘じゃないだろ。君のその身体の『整い』方は、誰かに深く、愛を持って向き合ってもらった証拠だ。俺には、それくらいわかる」
和眞はそれだけ言うと、颯華の背中を頼もしく叩き、「午後も頑張れよ」と言い残して去っていった。
「ちょっと颯華! 誰なの!? 社外の人?」
「いつから!? もしかして、あの入院してた時に……?」
「どんな人!? 写真は!?」
興奮する同僚たちに囲まれ、颯華はたじろぎながらも、カバンの中に眠る一台のスマートフォンにそっと触れた。あのアプリはない。電源をつける勇気もない。けれど、和眞が断言した通り、彼女の身体の中には、確かに「あの男」が住んでいた。
「……あー、えっと……」
颯華は、困ったように眉を下げながらも、どこか誇らしげに、確信を込めて笑った。
「秘密です。でも……世界で一番厳しくて、誰よりも私のことを信じてくれる、最高のコーチです」
その言葉に、同僚たちは「うわー!」「惚気だ!」とさらに盛り上がる。賑やかな喧騒の中で、颯華は空を見上げた。
(アッシュさん。……和眞くんにも、バレちゃったみたいだよ)
かつて自分を壊しかけた(と誤認していた)男が、今は自分の幸福を肯定してくれている。過去を乗り越え、自分を愛し、そしてアッシュとの約束を胸に生きる日常。颯華の心は、春の空のように、どこまでも澄み渡っていた。




