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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第7章 それでも選ぶ、知らない未来【選択編】

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20.境界線の向こう側


 昼休みのオフィス街。春の柔らかな陽光が降り注ぐテラス席で、颯華は玄米のおにぎりを頬張っていた。向かい側に座っているのは、榊木和眞だ。かつての二人の間にあった、息の詰まるような「関係」はもうどこにもない。


「……だから、大胸筋の厚みだけを求めても、肩甲骨の可動域を殺してしまったら本末転倒なんだよ」


 和眞が、プロテインシェイカーを傍らに置き、熱っぽく語る。彼は彼で、筋肥大バルクアップの奥深さに目覚め、最近はトレーニング理論の追求に余念がない。


「わかります。でも、私はやっぱり『整える』のが先だと思うな。インナーマッスルが抜けた状態で重いものを持っても、関節を痛めるだけですよ」


 颯華が冷静に、けれど楽しげに反論する。今の二人は、かつての「理想の押し付け合い」ではなく、お互いのメソッドを尊重し合う「トレーニング仲間」のような空気を纏っていた。和眞は、颯華のまっすぐな瞳を見て、ふっと穏やかに目を細めた。


「……今の眞嶌さんは、本当に理論がしっかりしているな。俺も負けていられない」





 そんな二人の様子を、遠巻きに眺めていた同僚の女性たちが、ニヤニヤしながら詰め寄ってきた。


「ちょっとちょっと! 復縁おめでとうって言ってもいいの?」

「最近の二人、付き合いたてカップルより雰囲気いいじゃない。やり直さないの?」


 唐突な冷やかしに、颯華は苦笑いを浮かべた。


「いえ、そんなんじゃ───」


 否定しようとした言葉を、和眞の低く、静かな声が遮った。


「……いや。復縁はありえません」


 和眞は驚くほど真剣な顔で、周囲を真っ直ぐに見据えた。


「眞嶌には、もう相手がいますから。俺なんかよりずっと厳しくて、……ずっと、彼女を深く理解している男が」


 一瞬、空気が凍りついた。


「……えっ!?」

「えええええ!? 誰!? どこの部署!?」


 静寂のあとに爆発的な騒ぎが起きる。同僚たちは食いつくように颯華に詰め寄った。


「ちょっと榊木くん!? 何言ってるの!」


 颯華は顔を真っ赤にして立ち上がった。和眞は、かつて彼女を追い詰めた加害者としての自分を完全に清算し、今は彼女の「新しい道」を守る戦友のような、清々しい表情を浮かべている。


「……嘘じゃないだろ。君のその身体の『整い』方は、誰かに深く、愛を持って向き合ってもらった証拠だ。俺には、それくらいわかる」


 和眞はそれだけ言うと、颯華の背中を頼もしく叩き、「午後も頑張れよ」と言い残して去っていった。




「ちょっと颯華! 誰なの!? 社外の人?」

「いつから!? もしかして、あの入院してた時に……?」

「どんな人!? 写真は!?」


 興奮する同僚たちに囲まれ、颯華はたじろぎながらも、カバンの中に眠る一台のスマートフォンにそっと触れた。あのアプリはない。電源をつける勇気もない。けれど、和眞が断言した通り、彼女の身体の中には、確かに「あのひと」が住んでいた。


「……あー、えっと……」


 颯華は、困ったように眉を下げながらも、どこか誇らしげに、確信を込めて笑った。


「秘密です。でも……世界で一番厳しくて、誰よりも私のことを信じてくれる、最高のコーチです」


 その言葉に、同僚たちは「うわー!」「惚気だ!」とさらに盛り上がる。賑やかな喧騒の中で、颯華は空を見上げた。


(アッシュさん。……和眞くんにも、バレちゃったみたいだよ)


 かつて自分を壊しかけた(と誤認していた)男が、今は自分の幸福を肯定してくれている。過去を乗り越え、自分を愛し、そしてアッシュとの約束を胸に生きる日常。颯華の心は、春の空のように、どこまでも澄み渡っていた。

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