19.共鳴する鼓動
季節が巡り、街には春の予感が満ち始めていた。颯華は、駅のホームで電車を待つ間、無意識に重心を親指の付け根に落とし、骨盤をスッと立てた。混雑するプラットフォーム。周囲の雑踏の中でも、彼女の立ち姿には一本の清流のような気品があった。
(……アッシュさん、見てるかな。今の私、かなり良いコンディションだよ)
ふとした瞬間に彼を思い出す。それは「いないことへの嘆き」ではなく、自分の中に息づく「彼との対話」だ。鏡を見るたび、歩くたび、彼女はアッシュが自分に注いでくれた情熱の跡を確認し、誇らしい気持ちになる。
仕事でも、颯華の存在感は増すばかりだった。
「眞嶌さん、例のプロジェクトのリーダー、引き受けてくれてありがとう。君がチームに入ってから、みんなの空気が整ったよ」
上司の言葉に、颯華は爽やかな笑顔を返した。
「ありがとうございます。まずは土台を整えることから始めただけです。軸がしっかりすれば、あとは自然に動き出しますから」
彼女はもう、誰かに自分の価値を証明してもらう必要を感じていなかった。自分の価値は、自分が一番よく知っている。この健康な身体、澄んだ思考、そして何より「自分を信じられる心」こそが、アッシュから受け取った最高の贈り物だからだ。
同僚たちとのランチでも、彼女の明るさは際立っていた。
「颯華って、本当に楽しそうだよね。何か新しいことでも始めたの?」
「うーん、新しいことっていうか……自分を磨くのが楽しくて。一生モノのスキルを教わったから、それを使いこなせるようになりたいんだ」
誰のことかは言わない。けれど、その瞳の奥には、確固たる「再会の約束」が灯っていた。
その夜。颯華はジムに通い始めていた。現実世界の、最新設備が整ったスポーツジム。アッシュのいたあの静謐な空間とは違うけれど、彼女にとっては「自分を研ぎ澄ます」ための神聖な場所だ。
黙々とトレーニングをこなす彼女の姿は、周囲の視線を集めていた。流行のウェアに身を包んでポーズを決める人たちの中で、颯華だけは自分自身の内面と対話するように、一挙一動を丁寧に行っている。
「ふぅ……」
深い呼吸。その瞬間、耳の奥で、懐かしい声が響いた気がした。
『───良い集中だ。筋肉が意志を持って動いている』
幻聴かもしれない。けれど、颯華はそれを空想だとは切り捨てなかった。
(知ってるよ、アッシュさん。あなたがこの世界のどこかに……あるいは、次元を超えた場所から、私を見てるってこと)
彼女が強くなればなるほど、身体の感触が鋭敏になればなるほど、アッシュという存在を近くに感じる。彼は失われた過去ではなく、彼女が進む先の未来に待っている「確信」だった。
帰宅し、いつものように部屋の隅に置かれたスマートフォンを手に取る。アッシュと出会った、あのアプリはない。けれど、颯華はそれを「思い出の品」としてではなく、「通信機」のように大切に扱っていた。
「アッシュさん。私、今日ね、新しいトレーニングで自分の限界を少しだけ超えたよ。……あなたがいたら、なんて言うかな」
返事は、ない。けれど、彼女は窓を開け、夜風に当たった。再会の方法はまだわからない。科学的に不可能なのかもしれない。それでも、彼女の身体が、魂が、叫んでいる。
───自分を磨き続け、最高の自分であり続ければ、いつか必ず、再び「共鳴」する瞬間が来る。
「……待ってて。必ず、あなたに追いついてみせるから」
颯華が微笑んでスマホを置いた、その時。月明かりに照らされた画面の奥で、一瞬だけ、青い光の粒子がデジタルな火花のように散った。
それは彼女の意志に呼応し、異次元のどこかで同じ月を見上げているであろう「彼」へと繋がる、目に見えない糸。
颯華は、もう迷わない。彼がくれた「自立」という武器を手に、彼女は希望に満ちた明日へと歩み出す。




