18.日常という名のトレーニング
朝、アラームが鳴る前に颯華の意識は鮮明に覚醒した。かつての、泥の中に沈んでいるような重苦しい目覚めではない。肺の隅々まで酸素が行き渡り、全身の細胞が「今日も一日を始める準備ができた」と報告してくるような感覚。彼女はベッドの上でゆっくりと上体を起こし、ニュートラル・ポジションを確認する。
(……よし。軸はぶれてない)
鏡を見る必要すらない。指先の感覚、背骨の伸び、足の裏が床を捉える重みの配分。アッシュと共に磨き上げた「身体の地図」が、今や彼女の脳内に完璧にインストールされていた。
職場での颯華は、もはや「影の薄い事務員」ではなかった。
「眞嶌さん、今のプレゼン資料の整理、すごく助かりました。構成が以前よりずっと論理的になった気がします」
「ありがとうございます。視点を整えると、伝えるべきことも自然と整理されるみたいです」
颯華は自然な微笑みと共に答えた。以前の彼女なら、他人の評価に怯え、縮こまって仕事をしていた。けれど今は違う。体幹を整え、正しい呼吸を保つことは、精神の安定に直結している。身体の「芯」があるから、言葉にも、行動にも、迷いがない。
昼休み。同僚たちが「最新の糖質制限ダイエット」の噂話に花を咲かせている。
「眞嶌さんはどう思う? 最近、すごくスタイルが良くなったし、何か秘訣があるんでしょ?」
向けられた問いに、颯華は手元のお弁当───彩り豊かな野菜と、適切なタンパク質、そして程よい量の玄米───を眺めながら、穏やかに首を振った。
「特別なことは何も。ただ、自分の身体が何を欲しがっているか、ちゃんと聞くようにしているだけです。削るんじゃなくて、満たして整える。それが一番効率がいいって、教えてもらったので」
その言葉には、流行のダイエット法に惑わされない、揺るぎない「経験」の裏打ちがあった。
夕刻、給湯室で和眞と出くわした。一瞬の沈黙。以前の二人の間にあった、支配と依存の重苦しい空気はない。
「……少し、顔色が良くなったな」
和眞が、ボトルの水を汲みながら不器用に呟く。
「ええ。おかげさまで、毎日がとても充実しています。榊木さんは? 仕事、立て込んでいるみたいですけど」
颯華の問いかけは、かつての機嫌を伺うようなものではなく、純粋に対等な同僚としての気遣いだった。
「……ああ。まあ、いつも通りだ。……眞嶌。お前がそうやって、自分の足で立っているのを見るのは……悪くない」
「ありがとうございます。……じゃあ、お先に」
颯華は軽く会釈をして、その場を去った。和眞の背中を見送る際、心に残っていた微かな罪悪感も、今はもう綺麗に消化されている。彼との日々も、その後の絶望も。すべては今の「強い自分」に至るための、必要な負荷だったのだ。
帰宅後。颯華は部屋の明かりを落とし、お気に入りのマットの上で、一日の疲れをリセットするためのストレッチを始めた。関節の可動域を広げ、深い呼吸で自律神経を整える。
(アッシュさん。私は、あなたの教えを武器にして、この世界で戦っているよ)
ふと、視線を部屋に置いたままのスマートフォンに向けた。アプリは消え、アッシュとは物理的な繋がりを失っている。寂しさがないわけではない。けれど、それ以上に「繋がっている」という確信があった。
なぜなら、この動く身体、この前向きな心、この鋭い感覚こそが、アッシュ・ナイトハルトという存在がこの世界に遺した「最高傑作」であり、彼そのものだからだ。
「……また、いつか」
颯華は誰に言うでもなく呟き、ふっと微笑んだ。いつか再び彼に会ったとき、「まだ調整の余地があるな」と彼に苦笑されないように。自分という器を、最高の状態に保ち続ける。
その時。触れていないはずの、スマートフォンの画面が。彼女の吐息に呼応するように、一瞬だけ、力強く、そしてどこか誇らしげな「青い光」を放った。それは、終わりではなく、新しい物語の始まりを告げる拍動のようだった。




