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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第7章 それでも選ぶ、知らない未来【選択編】

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17.確かな足跡


 朝の空気は、少しだけ冷たかった。窓を開けると、都会特有の乾いた風がカーテンを揺らし、部屋の中の停滞した空気を押し流していく。颯華は、洗面台の鏡に映る自分を、静かに見つめていた。


 非常階段から転落し、救急搬送されたあの日。意識が浮上する間際、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。けれど、それはきっと脳が見せた最後の幻聴だったのだろう。幸い、検査入院は一日で済み、今日から職場復帰だ。


 鏡の中の自分は、驚くほど「整って」いた。かつての、一グラムの増量に絶望して泣き腫らしていた顔はない。アッシュから教わった「整え」の呼吸を繰り返す。肋骨が締まり、体幹が一本の芯のように自分を支える。


「……いってきます」


 自分自身に告げる声は、以前よりもずっと、明るく響いた。




 オフィスに入ると、日常の喧騒が颯華を包んだ。


「眞嶌さん、もう大丈夫なの? びっくりしたよ!」

「はい、ご心配おかけしました。もうすっかり元気です」


 笑顔で応える颯華に、周囲はどこか戸惑ったような表情を見せる。以前の彼女が纏っていた、触れれば壊れそうな「悲劇のヒロイン」のような危うさが消えていたからだ。


 昼休み。同僚たちとカフェにいると、案の定、あの男の話題が出た。


「ねえ、さっきから榊木くんがこっちをチラチラ見てるよ。眞嶌さんが綺麗になったから、後悔してるんじゃない?」


 茶化す声に、颯華は視線を向けた。入り口付近に立つ榊木和眞と目が合う。彼は、かつて颯華が「加害者」として恐れていた冷徹な表情ではなく、ただひどく心配そうに、迷子を見守るような瞳で彼女を見ていた。


(……私は、あの人を悪者にすることで、自分を正当化していたんだ)


 異世界でアッシュに肯定され、自分を愛することを知った今ならわかる。和眞の言葉は刃ではなく、壊れていく颯華を繋ぎ止めようとした不器用な絆創膏だったのだ。




 退社時間。エレベーターホールで、偶然にも和眞と二人きりになった。沈黙が流れる。以前なら息が詰まるような恐怖を感じていたはずの空間で、颯華は自然に口を開いた。


「……最近、よく目が合いますね」


 和眞が、肩をびくりと揺らしてこちらを見た。


「元に戻ったから、また指導してやろうとでも思っているんですか? それとも、復縁してやろうっていう魂胆?」


 少し意地悪な言い方になったのは、かつての自分への照れ隠しだ。和眞は足を止め、自嘲気味に、そして寂しげに微笑んだ。


「……そんなつもりは、ない。ただ……」

「ただ?」

「……今の君は、ちゃんと地に足がついているように見えたから。安堵しているだけだ」


 その静かな響きに、颯華の胸の奥が温かく疼いた。


「……和眞さん。私、あなたにひどいことをしました」


 和眞が驚いたように目を見開く。


「あなたの不器用な優しさを『否定』だと受け取って、勝手に傷ついて、あなたを悪者にして逃げていた。……ごめんなさい。本当は、私を助けようとしてくれていたのに」


 長く、重い沈黙。やがて、和眞はふっと表情を緩めた。


「……謝る必要はない。俺も、言い方が最悪だった。……今の君を見ていると、付き合い始めた頃の、自分の意志で笑っていた君を思い出す」


 それは、二人がお互いを正しく理解し、本当の意味で別れを受け入れた瞬間だった。


「じゃあ。……元気で」


 和眞は短くそう告げると、以前よりもずっと軽やかな足取りで去っていった。




 その夜。颯華は薄暗い部屋で、一人ベッドに座っていた。スマートフォンを手に取る。あの日、異世界へ誘ってくれたはずの「インナーマッスルに届け!」というアプリは、どこを探しても見当たらない。最初から存在しなかったかのように、画面には日常のアイコンが並ぶだけだ。


「……アッシュ」


 名前を呼んでみる。返事はない。けれど、颯華は悲しくなかった。


 彼が教えてくれた呼吸が、今も自分の肺を膨らませている。彼が整えてくれた骨格が、今も自分を支えている。異世界での出来事がたとえ事故の見せた夢だったとしても、この身体に残る「正解」の感触だけは、何よりもリアルな真実だ。


「私、ちゃんとケジメをつけてきたよ。……和眞さんとも、自分自身とも」


 窓の外、夜の街が輝いている。颯華は最愛の人を思い浮かべる。


 ───アッシュ・ナイトハルト。


 世界で一番厳しくて、誰よりも優しかった私のコーチ。


「いつか、あなたが驚くくらい、もっと素敵な私になって……必ず、会いに行くから」


 颯華は、割れたスマートフォンの画面をそっと撫で、深く、長い呼吸をした。それは、いつか必ず帰る場所へと続く、新しい人生の第一歩だった。

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