17.確かな足跡
朝の空気は、少しだけ冷たかった。窓を開けると、都会特有の乾いた風がカーテンを揺らし、部屋の中の停滞した空気を押し流していく。颯華は、洗面台の鏡に映る自分を、静かに見つめていた。
非常階段から転落し、救急搬送されたあの日。意識が浮上する間際、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。けれど、それはきっと脳が見せた最後の幻聴だったのだろう。幸い、検査入院は一日で済み、今日から職場復帰だ。
鏡の中の自分は、驚くほど「整って」いた。かつての、一グラムの増量に絶望して泣き腫らしていた顔はない。アッシュから教わった「整え」の呼吸を繰り返す。肋骨が締まり、体幹が一本の芯のように自分を支える。
「……いってきます」
自分自身に告げる声は、以前よりもずっと、明るく響いた。
オフィスに入ると、日常の喧騒が颯華を包んだ。
「眞嶌さん、もう大丈夫なの? びっくりしたよ!」
「はい、ご心配おかけしました。もうすっかり元気です」
笑顔で応える颯華に、周囲はどこか戸惑ったような表情を見せる。以前の彼女が纏っていた、触れれば壊れそうな「悲劇のヒロイン」のような危うさが消えていたからだ。
昼休み。同僚たちとカフェにいると、案の定、あの男の話題が出た。
「ねえ、さっきから榊木くんがこっちをチラチラ見てるよ。眞嶌さんが綺麗になったから、後悔してるんじゃない?」
茶化す声に、颯華は視線を向けた。入り口付近に立つ榊木和眞と目が合う。彼は、かつて颯華が「加害者」として恐れていた冷徹な表情ではなく、ただひどく心配そうに、迷子を見守るような瞳で彼女を見ていた。
(……私は、あの人を悪者にすることで、自分を正当化していたんだ)
異世界でアッシュに肯定され、自分を愛することを知った今ならわかる。和眞の言葉は刃ではなく、壊れていく颯華を繋ぎ止めようとした不器用な絆創膏だったのだ。
退社時間。エレベーターホールで、偶然にも和眞と二人きりになった。沈黙が流れる。以前なら息が詰まるような恐怖を感じていたはずの空間で、颯華は自然に口を開いた。
「……最近、よく目が合いますね」
和眞が、肩をびくりと揺らしてこちらを見た。
「元に戻ったから、また指導してやろうとでも思っているんですか? それとも、復縁してやろうっていう魂胆?」
少し意地悪な言い方になったのは、かつての自分への照れ隠しだ。和眞は足を止め、自嘲気味に、そして寂しげに微笑んだ。
「……そんなつもりは、ない。ただ……」
「ただ?」
「……今の君は、ちゃんと地に足がついているように見えたから。安堵しているだけだ」
その静かな響きに、颯華の胸の奥が温かく疼いた。
「……和眞さん。私、あなたにひどいことをしました」
和眞が驚いたように目を見開く。
「あなたの不器用な優しさを『否定』だと受け取って、勝手に傷ついて、あなたを悪者にして逃げていた。……ごめんなさい。本当は、私を助けようとしてくれていたのに」
長く、重い沈黙。やがて、和眞はふっと表情を緩めた。
「……謝る必要はない。俺も、言い方が最悪だった。……今の君を見ていると、付き合い始めた頃の、自分の意志で笑っていた君を思い出す」
それは、二人がお互いを正しく理解し、本当の意味で別れを受け入れた瞬間だった。
「じゃあ。……元気で」
和眞は短くそう告げると、以前よりもずっと軽やかな足取りで去っていった。
その夜。颯華は薄暗い部屋で、一人ベッドに座っていた。スマートフォンを手に取る。あの日、異世界へ誘ってくれたはずの「インナーマッスルに届け!」というアプリは、どこを探しても見当たらない。最初から存在しなかったかのように、画面には日常のアイコンが並ぶだけだ。
「……アッシュ」
名前を呼んでみる。返事はない。けれど、颯華は悲しくなかった。
彼が教えてくれた呼吸が、今も自分の肺を膨らませている。彼が整えてくれた骨格が、今も自分を支えている。異世界での出来事がたとえ事故の見せた夢だったとしても、この身体に残る「正解」の感触だけは、何よりもリアルな真実だ。
「私、ちゃんとケジメをつけてきたよ。……和眞さんとも、自分自身とも」
窓の外、夜の街が輝いている。颯華は最愛の人を思い浮かべる。
───アッシュ・ナイトハルト。
世界で一番厳しくて、誰よりも優しかった私のコーチ。
「いつか、あなたが驚くくらい、もっと素敵な私になって……必ず、会いに行くから」
颯華は、割れたスマートフォンの画面をそっと撫で、深く、長い呼吸をした。それは、いつか必ず帰る場所へと続く、新しい人生の第一歩だった。




