16.約束の温度
朝の光の中に、ノイズが混じっていた。フウカは、自分の指先が時折デジタルデータの破片のように透けるのを見つめていた。
身体はこれ以上ないほど整っている。呼吸は深く、体幹は揺るぎない。アッシュと共に作り上げたこの「完璧な自分」は、皮肉にも、この世界の不自然さを暴き出す鏡となっていた。
「……気づいているんだろう。この世界の境界線が、限界を迎えていることに」
背後から、アッシュの静かな声がした。彼はすべてを悟ったような、どこか清々しい表情で立っていた。
「アッシュさん。私、思い出しました。誰が私を追い詰めたのか、そして……誰が私を守ろうとしていたのか」
フウカの脳裏に、真実の光景が広がる。冷酷だと思っていた和眞の言葉。それは突き放すためではなく、過度な自傷行為に近いダイエットに走る彼女を、必死に止めようとする叫びだった。
『ふざけるな。勝手に自分を壊すな……。俺が好きなのは、笑って飯を食うお前だ。こんな、 骸骨みたいなお前じゃない!』
和眞は、颯華が本来の自分を取り戻すことを願って、あえて身を引く別れを選んだのだ。
そして、非常階段。和眞に突き落とされたのではない。彼と別れた後、自責の念と脅迫観念からさらに食事を抜き、ふらふらになった体で一人、階段を踏み外した。それが真実。
「和眞さんは、私を嫌ったんじゃなかった。……私を、助けようとしてくれていた。それなのに私は、彼の優しさを『拒絶』とすり替えて、自分を被害者にすることで逃げていたんです」
フウカは自分の胸に手を当て、力強くアッシュを見つめた。
「アッシュさん。私、あちらの世界に戻らなきゃいけません。和眞さんにちゃんと謝って、彼が守ろうとしてくれた私自身を、今のこの『整った身体』で証明しなきゃいけないから」
アッシュの瞳に、激しい葛藤が走った。
「……戻れば、この完璧な環境はない。ストレス、不規則な生活、無理解な他者……。君の身体は、またすぐに乱されるだろう」
「ええ。でも、今度は負けません。アッシュさんが教えてくれたのは、ただの筋トレじゃない。どんな嵐の中でも、自分の呼吸と重心を保つための『生き方』ですから」
フウカは歩み寄り、アッシュの手を両手で握った。その手は、かつてのように震えていない。
「アッシュさんは、私の理想です。でも、理想の中に閉じこもったままでは、私は本当に自分を愛したことにはならない。……だから、ケジメをつけに行きます」
その時、ジムの扉が勢いよく開いた。そこに立っていたのは、ボロボロに傷ついたような顔をしたアレクだった。
「……行かせねえ。そんな、お前を壊すような場所になんか……!」
アレクが伸ばした手。以前のフウカなら、その圧に怯えていただろう。だが、今のフウカは違う。彼女は一歩も引かず、アレクの目を真っ直ぐに見据えた。
「アレクさん。止めてくれてありがとう。でも、今の私は、あなたの力強さを『暴力』ではなく『生命力』だと正しく理解できます。……今の私なら、あちらの世界の重圧さえ、自分の筋肉に変えていける。だから、信じてください」
アレクは息を呑み、伸ばした手をゆっくりと下ろした。彼女の瞳にある揺るぎない「芯」に、圧倒されたのだ。
「……アッシュ。お前、とんでもない女を育てちまったな」
アレクが自嘲気味に笑うと、アッシュもまた、誇らしげに口角を上げた。
「……ああ。僕の、自慢の恋人だ」
アッシュはフウカを引き寄せ、その額に静かに唇を寄せた。
「約束だ、フウカ。あちらで自分を使い果たし、それでも自分を見失わなかった時……また、ここで君を調整》させてくれ。君の帰る場所は、いつだってここにある」
「はい。いってきます、コーチ」
光が溢れ出す。それは崩壊の光ではなく、次なるステージへの扉が開く輝きだった。
白い病院のベッド。眞嶌颯華は、ゆっくりと目を開けた。身体が重い。重力という名の、現実の負荷。けれど、彼女は笑っていた。
深く、丁寧な呼吸を一つ。腹横筋がキュッと締まり、内側から体を支える感覚。アッシュの熱が、まだ筋肉の奥に残っている。
「……さて。整えに行こうかな」
彼女は自分の力で上体を起こした。かつての弱々しい影はない。そこには、自分の足で人生を歩き出そうとする、一人の強い女性の姿があった。




