15.覚醒への前奏曲
朝の光は、あまりにも純粋で、どこか非現実的なほどに透き通っていた。フウカは、自分の指先から足の先まで、エネルギーが淀みなく巡っているのを感じて目を覚ます。アッシュと共に整えてきたこの体は、今や彼女にとって最も信頼できる「もの」となっていた。
隣には、静かに横たわるアッシュがいた。ジムでの峻厳な姿とは裏腹に、眠る彼は驚くほど穏やかだ。フウカはその横顔を見つめながら、ふと、胸の奥を小さな棘で刺されたような感覚に陥った。
(……どうして、こんなに「完璧」なんだろう)
このジムも、アッシュとの時間も、彼女の体調も。すべてが計算され尽くしたように整いすぎている。それは幸福であると同時に、どこか「命の揺らぎ」が削ぎ落とされた、美しい標本の中にいるような違和感でもあった。その時、アッシュがゆっくりと目を開けた。
「……おはよう、フウカ。顔色が一段といい。細胞の隅々まで、僕の伝えたリズムが浸透しているね」
「おはようございます、アッシュさん。はい……おかげさまで。でも、少しだけ不思議なんです」
「何がだい?」
「あまりに体が軽すぎて、時々、自分が地面に立っていないような……どこか遠い場所で、誰かの夢を見ているような気持ちになるんです」
アッシュの瞳の奥で、微かな、けれど鋭い光が走った。彼はそれを隠すように、フウカの髪を優しく撫でる。
「それは、君が余計な『重荷』を捨て去ったからだよ。現実という名の不純物を排し、純粋な自分自身に到達しつつある証拠だ」
昼のトレーニング中、異変は起きた。フウカがいつものように呼吸を整え、重り《ウェイト》を上げようとした瞬間。耳の奥で、キィィィンという電子音のような高音が響いた。
(……っ!?)
視界がわずかに歪む。マシンの金属光沢が、一瞬だけノイズのように乱れた。
「フウカ、どうした。フォームが乱れている」
アッシュが即座に駆け寄り、彼女の体を支える。その手はいつも通り温かく、確かな質感を持っているはずなのに。
「……アッシュさん、今、変な音が……。それに、誰かの声が聞こえた気がして」
「声?」
「はい。低くて、少しぶっきらぼうで……でも、私の名前を、フウカじゃなくて、違う呼び方で……」
アッシュの表情から、一切の温度が消えた。
「それは過放電のようなものだ。神経系が急激に発達したことで、過去の不要な記憶がバグを起こしている。気にする必要はない」
「でも……」
「僕を信じろ、フウカ。君を理解し、君の体を守れるのは、世界で僕だけだ」
アッシュの言葉は、以前のような「対等な助言」というより、何かを必死に繋ぎ止めようとする「呪縛」に近い響きを帯び始めていた。フウカはその違和感を、はっきりと捉えていた。
その夜。フウカは深い眠りの中で、激しい嵐に揉まれていた。
冷たい雨。アスファルトの匂い。目の前に、一人の男が立っている。顔は霧がかかったように見えないが、その「背負っている空気」が、ジムにいるアレクと酷似していた。男は、震える声で叫んでいた。
『……ふざけるな。勝手に一人で完結するな。戻ってこい、……颯華!』
「……っ、か、ず……ま……」
フウカの唇が、無意識にその名前を紡いだ。その瞬間、世界に亀裂が入った。
パチッ、と空間が弾けるような音がして、フウカは跳ね起きた。隣に座っていたアッシュが、見たこともないような冷徹な、そして絶望したような眼差しで彼女を見つめていた。
「……今、なんて言った?」
アッシュの声は、地を這うように低い。
「え……私、何か……」
「……『カズマ』。そう言ったね、君は。……そうか、ついにその名が、君の深層意識から漏れ出したか」
アッシュは立ち上がり、窓の外を見つめた。そこには、いつもと変わらない美しい夜景が広がっている。しかし、その景色がわずかに「点滅」しているのを、フウカは見逃さなかった。
「フウカ。君がその名前を呼ぶたびに、この世界の『整合性』が失われていく」
「どういう……意味ですか?」
「カウントダウンが始まったということだ。君が現実の名前を思い出し、呼ぶたびに、僕が作り上げたこの完璧な調整環境は、ノイズに侵食されていく」
アッシュは振り返り、フウカの前に膝をついた。そして、彼女の両手を、壊れ物を守るように強く、切実に包み込んだ。
「……行かないでくれ、フウカ。あちらに戻れば、君はまた『重い体』に縛られ、不器用な愛に傷つくことになる。ここでは君は自由だ。僕が君を、最高の状態で維持し続ける」
フウカは、アッシュの瞳の中に、狂気にも似た深い愛着と、隠しきれない「恐怖」を見た。
(……私は、選ばなきゃいけないんだ)
整えられた幸福な檻の中で、永遠の完成を享受するのか。それとも、あの雨の中で叫んでいる「カズマ」という名の男の元へ、未完成で重たい体を引きずって戻るのか。フウカの脳裏に、再び「和眞」という響きが木霊する。それは、アッシュが与えてくれる「完璧な肯定」とは違う、不器用で、けれど体温を感じる痛み。
「……ごめんなさい、アッシュさん」
フウカのその一言が、静かなジムの中に、終わりの始まりを告げる警笛のように響き渡った。




