14.触れられる記憶
窓の外から差し込む朝の光は、羽毛のようにやわらかく、部屋を淡い琥珀色に染めていた。フウカは、小さなキッチンで湯を沸かしていた。ここはジムのバックヤードにある、アッシュの居住スペースだ。
昨日の夕方、アレクと対峙したフウカは、かつてない衝撃に襲われた。記憶の扉が内側から叩かれるような感覚。倒れそうになる衝撃を、彼女はアッシュから教わった呼吸と体幹で、どうにか踏みとどまった。そんな彼女の異変を察したアッシュは、「今夜は一人でいさせられない」と、彼女を自室へ招いたのだ。
「……おはよう」
背後から、少しだけ熱を孕んだ寝起きの声が届く。振り返ると、そこにはゆったりとした部屋着姿のアッシュが立っていた。
「おはようございます、アッシュさん」
少し前に想いを通わせ、恋人となった二人。ジムでは指導者とクライアントとして節度を守っているが、このプライベートな空間では、アッシュの瞳には深い慈しみと、一人の男としての熱が宿る。
「体調はどう? 昨日は……脳がひどく疲弊しているようだったけど」
「はい。ここでアッシュさんの香りに包まれて眠ったら、驚くほどスッキリしました」
フウカが微笑むと、アッシュは愛おしそうに彼女の髪をひと房、指先で弄んだ。
「今日はトレーニングは全面禁止だ。感覚過敏を鎮めるための、リカバリー・メニューを用意した」
アッシュが手際よく用意したのは、神経伝達をスムーズにするビタミンB群が豊富なレバーのムースと、抗酸化作用の高いベリーを添えたライ麦パンだった。
「脳の炎症を抑え、自律神経のバランスを整える構成なんだ。……あーん、して」
不意に差し出されたフォークに、フウカは顔を赤らめながらも、素直に口を開く。
「美味しい……。アッシュさんの食事は、本当に心まで解けますね」
「君の細胞ひとつひとつを、俺の知識と愛情で満たしたいんだ」
恋人としてのストレートな言葉に、フウカの胸が高鳴る。アレクから感じた「剛」の圧力や、夢の中の冷たい言葉。それらは、アッシュが与えてくれるこの確かな温度の中に、溶けて消えていくようだった。
午後。フウカは忘れ物を取りに、一人でロビーへと出た。
「……フウカ」
低い、地の底から響くような声。そこにいたのは、肩を落としたアレク・ホロウフィールドだった。
「……探したんだ。昨日は、悪かったな」
アレクの瞳には、困惑と焦燥が渦巻いていた。彼はフウカが纏う空気が、昨日までとは決定的に違うことに気づいていた。彼女の瞳にはもう、自分に対する「恐怖」すら残っていない。ただ、揺るぎない決意が宿っている。
「何でだよ」
アレクの大きな拳が震える。
「何で、俺じゃダメなんだ。俺だって、お前を強くしてやりたかった。アッシュみたいな繊細なやり方はできねえけど、俺なりに、お前の盾になりたかったのに」
それは、アレクが抱える無自覚な「和眞とのリンク」による、根源的な敗北感だった。だが、今のフウカはもう、その圧に流されることはなかった。
「アレクさん。私は、アッシュさんを選んだんです」
フウカは真っ直ぐに彼を見据えて言った。
「あなたが悪いわけじゃない。でも、私は『壊して作り直される』ことより、『整えて自分を取り戻す』ことを、自分の意志で選びました。……だから、もう私を追いかけないでください」
それは、記憶を失う前の彼女には決して言えなかった、究極の自己主張だった。アレクは一瞬、雷に打たれたように凍りつき、やがて力なく笑って踵を返した。
「……完敗だな。お前、いつの間にか……めちゃくちゃ強くなってやがる」
その夜。フウカはアッシュの隣で、彼の大きな手に自分の手を重ねていた。
「アッシュさん。私、少しずつ思い出しています。自分がなぜ階段から落ちたのか。そして……」
アッシュは何も言わず、ただ彼女の手を優しく握り返した。その掌の厚みが、何よりも饒舌に彼女を肯定していた。
「何を思い出しても、俺が君の隣にいる事実は変わらない。君が選んだこの道を、俺が最後まで整え続ける」
アッシュが引き寄せ、フウカの額に柔らかなキスを落とす。記憶がなくても、愛されていることはわかる。選んだという事実だけが、フウカの胸の中で、消えることのない温かな灯火として燃え続けていた。




