13.揺らぐ記憶
その夜、フウカは深い眠りの底で、奇妙な夢を見た。王都の柔らかな石造りの街並みではない。冷たいコンクリート、磨耗したゴムの匂い、そして網膜を焼くような蛍光灯の、青白い光。
(……足が、重い)
必死に階段を上ろうとしているのに、肺が半分も膨らまないような閉塞感。
「……おい、足元がふらついてるぞ。自己管理ができてない証拠だ」
背後からかけられた声。それは心配を装いながら、底冷えするような支配欲を孕んだ響きだった。
「君のためを思って言ってるんだ。その醜い体で、よく平気でいられるよな」
───ハッと目が覚めた。
シーツを握りしめた指先が震えている。だが、今のフウカは以前の彼女とは違う。彼女はすぐに上体を起こし、アッシュに教わった「鎮静の呼吸」を始めた。
「吸って、四秒。止めて、二秒。吐いて、八秒……」
吐く息に合わせて、浮き上がっていた肋骨が内側に収まっていく。三回、四回と繰り返すうちに、不快な夢の残滓は、論理的な「分析対象」へと変わっていった。
(今の私ならわかる。あれは正しい指導じゃない。ただの呪いだ)
翌日。トレーニングは始まったが、アッシュは最初の一歩を見ただけで、フウカの集中力が散漫なことを見抜いた。
「今日はウォームアップまでにしよう。内耳の平衡感覚が少し乱れている」
「……わかりますか? 実は変な夢を見て。でも、大丈夫です。動いて血流を良くした方が、頭がスッキリする気がします」
フウカは冷静に自分の状態を報告した。アッシュは彼女の主体性を尊重し、「無理のない範囲で」とバーベルの代わりに軽いラットプルダウンを勧めた。背中の筋肉を意識し、バーをゆっくりと引く。だが、その背後にまたしても「彼」が現れた。
「フォームが硬い。広背筋じゃなく、腕の力で引こうとしてるだろ」
アレクの声。至近距離での指摘。その瞬間、フウカの身体がわずかに強張った。昨夜の夢の「声」と、アレクの「声」が、物理的な圧力として重なり合う。
「……アレクさん。アドバイスは嬉しいですが、今はアッシュさんの指導に集中させてください」
フウカはバーを戻し、はっきりとアレクの目を見て言った。以前のように逃げるのではなく、自分の境界線を言葉で引いたのだ。アレクは意外そうに目を丸くし、それから少し決まずそうに後退した。
「……ああ、悪い。お前、今日は一段と『戦う顔』をしてるな」
トレーニング後、アッシュはフウカをラウンジに促し、クルミと青魚のリエットを添えた全粒粉のクラッカーを差し出した。
「オメガ3脂肪酸。脳の炎症を抑え、記憶の整理を助ける栄養素だ。夢で疲れた脳にはこれが必要だ」
「ありがとうございます。……私、さっきアレクさんにハッキリ言えました」
「ああ、見ていたよ。見事なセルフマネジメントだ。君の境界線は、君自身が守るもの。それを実行できた君を、心から称賛するよ」
アッシュの言葉に、フウカは小さく微笑んだ。守られるだけの存在から、自分の足で立つ存在へ。その実感が、彼女の自己肯定感を少しずつ満たしていく。
帰り際。ジムの廊下でアレクが待っていた。
「なあ、フウカ」
彼は少しだけ距離を保ち、真剣な表情で言った。
「俺、お前の夢に出てきた『そいつ』とは違う。……だが、俺の圧がそいつを思い出させるなら、それは俺の未熟さだ。しばらくはアッシュの言う通り、遠くで見守ることにするよ」
その不器用な誠実さに、フウカは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
「ありがとうございます。アレクさんが悪いわけじゃないんです。ただ、私の身体がまだ……」
その時、廊下の鏡に映った自分の姿と、アレクの巨大な影が重なった。一瞬の既視感。
(……階段。誰かに突き落とされたんじゃなくて、私は───)
脳裏に火花が散る。それはパニックではなく、パズルのピースが噛み合うような鋭い衝撃だった。アレクの存在は、フウカにとっての恐怖の対象ではなく、彼女を「現実」へと引き戻す強力な楔となっていた。
「……アッシュさん」
フウカは、背後にいたアッシュを振り返った。
「私、少しずつ思い出しています。自分がなぜ、ここに来たのかを」
アッシュの瞳に、一瞬だけ揺らぎが走った。それは喜びか、それとも───異世界での「整えられた平穏」に、現実世界からの確かな足音が混じり始めていた。




