12.追いかける者、逃げる者
「避けている」という自覚はあった。意識的に遠ざけようとしているというよりも、もはや脊髄反射に近い。アレク・ホロウフィールドという「巨大な個」が放つ重力圏を、フウカの身体が本能的に察知し、その対角線上へと自分を運んでしまうのだ。ジムの通路を曲がるたび、角の向こうにあの厚い胸板が立ちはだかっていないか、無意識に視線を巡らせる。
(……よし、いない)
それだけで、肺が元の形に戻るような安堵感があった。けれど、その安堵は長くは続かない。
「おーい、フウカ! ちょうどいいところに!」
背後から響く、鼓膜を直接揺らすような野太い声。
「また逃げてるのか? 俺、お前にアドバイスがあるって言っただろ」
アレクだ。彼の歩幅は大きく、逃げようと早めるフウカの足音を、軽々と追い越していく。
「……すみません、今、アッシュさんと約束があるので」
「挨拶ぐらいしていけよ! 別に取って食おうってんじゃねえんだから」
足音が執拗に追ってくる。その瞬間、フウカの脳裏にノイズが走った。
(やめて……来ないで……!)
理由はわからない。けれど、「背後から追われる」という行為そのものが、彼女の記憶の地層に眠る、正論で追い詰められた「あの夜」の感覚を掘り起こしていた。角を曲がった瞬間、フウカはアッシュの胸に飛び込むようにして止まった。
「フウカ」
聞き慣れた、低く涼やかな声。彼女は反射的に、アッシュの背後へと回り込んだ。
「アレク。これ以上、彼女を追い回すのはやめてもらおうか」
アッシュの瞳には、いつもの穏やかさはない。だがそれは独占欲ではなく、クライアントの平穏を脅かす者への、プロとしての厳しい拒絶だった。
「追い回してねえよ。この間の『悪気がなけりゃいいのか』って言葉、一晩考えてよ。俺なりに、彼女に合う『剛』じゃないメニューを組んできたんだ。それを見せようと思って」
アレクは、手に持ったタブレットを差し出した。そこには、意外にもフウカの骨格特性を考慮した、丁寧なストレッチメニューが記されていた。彼なりに歩み寄ろうとしていたのだ。
「……君の熱意は否定しない。だが、相手が拒絶している時に踏み込むのは、指導者として最低限の礼儀を欠いている。今は引きなさい」
アッシュの断固とした態度に、アレクは不満げに鼻を鳴らし、「……指導者の最低限の礼儀の欠落かよ」と吐き捨てて去っていった。
その日の夜。静かになったジムで、アッシュはフウカに、マグネシウムを豊富に含む「カカオ70%以上のチョコレート」をひとかけら差し出した。
「神経の興奮を鎮める。今は無理にアレクと向き合わなくていい」
「……すみません。私、やっぱり逃げてばかりで」
俯くフウカに、アッシュは静かに語りかけた。
「フウカ、これは『逃げ』ではない。自分の心身を守るための『戦略的撤退』だ。トレーニングでも、限界を超えたら一度バーベルを置くだろう? それと同じだ」
「戦わなくていいんですか?」
「克服を急ぐ必要はない。君が自分の足で立てるようになるまで、俺がその間に入る。それは君を甘やかしているのではなく、君が自分の感覚を信じるための時間を確保しているだけだ」
アッシュの言葉は、常に「フウカ自身」を主役においていた。守られるだけの弱者ではなく、いつか自分の力でアレク(あるいはその先の記憶)と対峙するための準備期間を、彼は支えてくれているのだ。
翌日。アレクはアッシュの忠告を守り、フウカに直接近づくことはしなかった。代わりに彼は、ジムの隅で自分に厳しいトレーニングを課していた。アッシュの「柔」の理論を咀嚼しようと、慣れないスローペースの自重トレーニングを繰り返している。その額には、かつての彼なら見せなかったような、複雑な葛藤の汗が滲んでいた。
(アレクさんも、彼なりにこのジムに馴染もうとしているんだ……)
その誠実さを認めたい自分と、それでも生理的に身体が震えてしまう自分。
帰り道、フウカは夕闇の中で自分の掌を見つめた。アッシュが守ってくれる。逃げていいと言ってくれる。その安心感のおかげで、今の彼女は「フウカ」として立っていられる。
けれど、確実に何かが近づいている。アレクが波紋を広げるたびに、水底の泥が舞い上がるように、失われた記憶の断片が形を成し始めていた。
(思い出してはいけない気がする。でも、いつまでもこのままじゃいられない……)
アッシュの献身と、アレクの不器用な正義。その二つの力の狭間で、フウカの記憶の扉は、今にも内側から弾け飛ばされようとしていた。




