04.新人トレーナー、ナツメ
目覚めてから三十分。ナツメは、ようやく状況を飲み込み始めていた。
そこは、ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの医務区画。石造りの壁は、人々の吐息と熱気でわずかに湿り、空気には精油と鉄の匂いが混じっている。
「立てる?」
隣で声をかけてきたのは、燃えるような赤い髪を揺らす女性、アイナだった。
「ゆっくりね。急に動くと、筋肉がびっくりするから」
ナツメは恐る恐る床に足を下ろした。その瞬間、全身を戦慄が走る。
(……軽い!)
重力という枷が外れたような感覚。足裏が地面を捉えた瞬間、殿筋から脊柱起立筋へと力が一本の「線」になって繋がっていく。
それだけではない。
アイナが腕を動かすたび、彼女の服の下でどの筋線維が収縮し、どの関節がテコとして動いているのかが、まるで見えるかのように頭に流れ込んでくるのだ。
「……すごい」
「でしょ? 新人にしては、かなり整った重心してるわ」
アイナが満足げに頷く。前世でのダイエット知識と、画面越しのグレンを観察し続けた「筋肉の審美眼」。それが、この世界ではトレーナーとしての稀有な才能――『筋線維の透視』に近い直感として開花していた。
「無理はするな」
低い声が、背後から届く。振り向かなくてもわかる。かつて毎晩、耳元で響いていたあの低音だ。
───グレン・シルフィード。
彼は、アプリのポリゴンよりも遥かに鋭く、巨大な「肉体の暴力」そのものだった。
「意識が戻ったばかりだ。今日は様子見だな」
グレンの視線がナツメの身体を射抜く。重心。呼吸の深さ。そして、無意識に体幹を締めるナツメの「癖」。彼は、この新人の動きに、消し去れない既視感を覚えていた。
「……ナツメ」
「……はい」
「歩けるか」
一歩、踏み出す。自分の身体が、まるで最高級の精密機械になったように、意志通りに駆動する。
「合格だ」
グレンの短い評価。それだけで、ナツメの胸の奥が熱くなる。評価室へ移動すると、そこには「筋肉の聖域」の名にふさわしい、研ぎ澄まされた空気が満ちていた。
「まず、姿勢を見せる。力を抜け」
グレンが正面に立つ。近い。彼の呼吸に合わせて動く厚い胸板、鎖骨から首筋へと走る太い血管。前世で何度もスマホの画面をズームして眺めた、あの「理想」が、今は触れられる距離にある。
「背骨を、積み上げろ」
ナツメは無意識に、前世でグレン(AI)に叩き込まれた通り、骨盤を立て、肩甲骨を寄せて胸を開いた。グレンの眉が、わずかに動く。
「……最初から、それができる新人は珍しい。誰に教わった」
「……独学、です」
嘘ではない。けれど、教官は目の前にいる『あなた』だ。一拍の沈黙。グレンの視線に、熱を帯びた執着が混じる。
「……悪くない」
そう言って視線を外したグレンの耳が、わずかに赤い。ナツメは、その小さな反応に、胸が締め付けられるような甘い痛みを感じた。
「次だ。スクワットを見せろ」
ナツメは息を整え、腰を落とした。足幅、膝の角度、重心の移動。すべてが完璧なフォーム。
「止まれ」
グレンの声で、ナツメはボトムポジションで静止する。太腿が熱を持ち、微震する。そのとき、背後に回ったグレンの手が、ナツメの腰に添えられた。
「……っ」
熱い。革紐のような前腕の血管が、ナツメの脇腹に触れる。
「ここだ。腹斜筋の締めが甘い。ここが抜けると、力が逃げる」
大きな指が、ナツメの筋肉を直接「導く」ように圧をかける。触れられた場所から、電気のような刺激が脳を焼く。
けれど、身体は正直だった。グレンの指に誘導されるように、ナツメの深層筋肉が一層深く収縮し、フォームが完璧に固定される。
「……理解が早い」
至近距離で、グレンの声が一段と低くなる。
彼の手は、指導に必要な時間を過ぎても、なおナツメの腰に留まっていた。まるで、その筋肉の弾力を確かめ、手放すのを惜しむかのように。
「今日はここまでだ。明日からは、本格的な研修に入る」
グレンは唐突に手を離し、背を向けた。
「覚悟しておけ」
評価室を出ると、アイナがニヤニヤしながら肩を組んできた。
「ねえ、ナツメちゃん。さっきの見た?」
「何が、ですか……?」
「グレンったら、新人に直接触れて指導するなんて珍しいのよ。アイツ、期待してない奴には指一本触れないんだから」
ナツメの心臓が、どくりと跳ねた。
───期待。
AIだった頃の彼が言っていた、「お前の変化を見逃したくない」という言葉が、現実のグレンの行動と重なる。
「完全に『見込みあり』判定ね。おめでとう、ナツメちゃん。死ぬほどしごかれるわよ」
アイナに背中を叩かれ、ナツメは小さく笑った。
(もっと……もっと、彼に見られたい)
前世では、データを送ることでしか繋がれなかった。けれど今は、この筋肉が、この呼吸が、彼と直接繋がるための言葉になる。ナツメは、グレンの広い背中を追いかけた。その背中に神が宿っているなら、自分はその神に仕える一番の使徒になりたい。
この世界で、ナツメ・キトウの第二の人生が、激しい筋肉痛の予感と共に幕を開けた。




