11.苦手意識の輪郭
その日から、フウカの身体は、意志よりも速いスピードでアレクを「異物」として認識し始めていた。
かつてアッシュから教わった、神経系を整えるアプローチ。それによって敏感になった彼女のセンサーは、今やアレクがジムの扉を開ける数秒前の、空気の密度の変化さえも捉えていた。
(おかしい……。アレクさんは、悪い人じゃないはずなのに)
自分に言い聞かせても、身体は正直だ。アレクの巨躯が視界に入るだけで、僧帽筋が吊り上がり、首の付け根が鉄板のように強張る。それは、失われた記憶の底で眠る「誰か」への拒絶反応に他ならなかった。
「今日は不安定な土台の上で、視覚と内耳、そして足裏の感覚を統合していく。脳が『自分の位置』を正確に把握すれば、無駄な食欲も消え、代謝は勝手に上がる」
アッシュの穏やかな声が、フウカの意識を繋ぎ止める。彼女は柔らかいフォームパッドの上に裸足で立った。
「腹横筋に薄く力を入れて。骨盤のニュートラルを保ったまま、ゆっくりと右脚を浮かせる」
フウカは指示に従い、ゆっくりと片脚立ちになる。アッシュがすぐそばで見守っているという安心感が、彼女の神経系を鎮めていた。だが、その静謐な時間は、地響きのような足音によって破られた。
「へえ、地味なことやってんなぁ!」
背後から響くアレクの声。反射的に、フウカの集中力が霧散した。右脚が激しく揺れ、身体の軸が崩れる。
「おっと、危ねえ!」
アレクが反射的に手を伸ばした。丸太のような腕が、フウカの肩を支えようと迫る。
「っ……!!」
触れられる直前。フウカは弾かれたように身を引いた。それは運動ではなく、本能的な「回避」だった。勢い余ってマットの外へ転びそうになる。
「フウカ!」
即座にアッシュの腕が伸びた。彼女の重心の崩れを予測し、衝撃を逃がしながら優しく受け止める。アッシュの胸から、いつもより少しだけ速い鼓動が伝わってきた。
「……大丈夫か」
アッシュの声は、フウカが聞いたことがないほど低く、鋭かった。
「おいおい、倒れそうだったから助けようとしただけだぞ?」
アレクが心外そうに眉をひそめる。
「必要ない」
アッシュはアレクを真っ向から射抜くような視線で見据えた。
「彼女の重心管理は俺が行う。君の『助け』は、今の彼女には過剰な刺激だ。二度と、不用意に触れるな」
「……ちっ、過保護だな。ダイエット部門ってのは、そんなに会員を甘やかすのが仕事かよ」
アレクは悪気なく、ただの冗談として肩をすくめた。だが、その「甘え」という言葉は、フウカの胸に冷たく、重い石を落とした。
トレーニング後、アッシュはフウカをラウンジに促し、小さなボウルを差し出した。
「神経系が過敏になっている。今は鎮静が必要だ。これを食べて」
それは、マグネシウムが豊富なアーモンドのスライスと、トリプトファンを含むバナナを和えたギリシャヨーグルトだった。
「血糖値を急上昇させず、セロトニンの生成を助ける構成だ。脳がリラックスすれば、身体の強張りも解ける」
「……すみません、アッシュさん。また、迷惑をかけて」
フウカが俯くと、アッシュは彼女の正面に座り、静かに首を振った。
「嫌だと感じることに、理由はいらないんだ、フウカ。君の身体が『NO』と言ったのなら、それがこの場所での正解だ。迷惑どころか、君が自分を守ろうとしたことを、俺は誇りに思う」
その言葉は、かつてのフウカが一度も与えられなかった「聖域」の鍵だった。
(理由が……ある気がするんです。誰かに、境界線を踏み荒らされたような……)
喉まで出かかった言葉を飲み込み、フウカは温かいハーブティーを口に含んだ。
夕方。ジムの業務としてマシンの消毒をしていたアレクは、意外にもアッシュの「柔」の教えを忠実に守り、高負荷を求める会員に対しても「今日は関節を休めて、可動域を広げる日だ」と、プロとして抑制の効いた指導をしていた。バルクアップさせたい本能を抑え、郷に従おうとする彼の誠実さの表れだった。
だが、更衣室に向かおうとするフウカの前に立つと、その「強すぎる圧」は隠せなかった。
「なあ。避けられてる理由、俺にはさっぱりわからないんだが」
アレクは本気で困惑していた。
「俺は会員を傷つけるような真似はしねえ。嫌われる心当たりがない。ハッキリ言ってくれねえか」
フウカは、壁に背を預けるように一歩下がる。逃げ場がない。
「……近づかないで、ください」
絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「そんなに嫌か? 俺、悪気はねえんだよ」
その言葉。アレクの口から出た「悪気はない」というフレーズが、フウカの胸を、毒を塗った針のように突き刺した。
(悪気がなければ……私は、この苦しさを我慢しなきゃいけないの?)
脳裏に、現実世界での和眞の顔が、ノイズのように明滅する。
「……悪気がなければ、何をしてもいいわけじゃありません」
アレクが目を見開く。
「私が『嫌だ』と言っている。今はその事実がすべてです。理由を説明できない私を、責めないでください」
それだけで、フウカの限界だった。彼女はアレクの脇をすり抜け、その場を去った。
残されたアレクは、宙に浮いた自分の手を見つめ、初めて、自分の「善意の力」が誰かにとっての「脅威」になり得るという事実に立ち尽くした。
その夜。自室で一人、フウカは自分の腕を抱きしめていた。アッシュのジムは、完璧に「整えられた」聖域だったはずだ。けれど、アレクという楔が打ち込まれたことで、世界の解像度が歪み始めている。
「私は、何を……何を、思い出しそうなんだろう」
失われた記憶の断片が、鋭利な刃物となって、彼女の「平穏な今」を切り裂こうとしていた。




