10.圧のある影
翌日。朝のジムは、アッシュが丹念に整えた「静謐」を保っているはずだった。けれど、フウカの中だけが、昨日からわずかに落ち着かない。あのアレクという男が放つ、空間を物理的に圧迫するような「個」の強さ。
(……昨日の人。どうしてあんなに、胸がざわつくんだろう)
思い出そうとするだけで、肺の奥が薄く氷を張ったように冷たくなる。かつてのフウカなら、この不快感を「自分が悪いせいだ」と押し殺しただろう。けれど、アッシュに教わった今の彼女は、自分の身体が発する「NO」というサインを無視できなくなっていた。
「集中しよう。今は、自分の筋肉の声を聞くんだ」
自分に言い聞かせ、ランニングマシンに乗る。腹横筋を意識し、一歩一歩、踵から着地して親指の付け根で蹴り出す。関節が正しく連動する感覚に没入しようとした、その時。
「───フォーム、いいな。軸がブレてねえ」
至近距離、背後から投げかけられた野太い声。フウカの心臓が、喉元まで跳ね上がった。振り向くと、そこに巨大な「壁」のような影が立っていた。
アレク・ホロウフィールド。
彼はアッシュが常に保ってくれる「安全圏」を、なんの躊躇もなく踏み越えていた。
「え……っ」
「ダイエット部門の会員ってのは、もっとこう、フラフラして頼りねえイメージがあったが。お前、基礎がしっかりしてんな。アッシュの教え方がいいのか、お前の素質か」
アレクは、フウカのフォームを値踏みするように上から下まで眺める。隆起した上腕二頭筋が、ウェアを突き破らんばかりに膨らんでいる。その圧倒的な「質量」が視界に入るだけで、フウカの胃の奥がきゅっと縮んだ。
「……失礼ですけど。私、今、トレーニング中なので───」
「アレク・ホロウフィールドだ。昨日も言ったが、改めてよろしくな。俺はハッキリしたのが好きなんだ」
被せるように名乗られる。拒絶の隙を与えない、強引なコミュニケーション。彼は悪びれもせずマシンの手すりに肘をつき、フウカの顔を覗き込んだ。
「……」
言葉が、出てこない。嫌だと言いたいのに、喉が痙攣したように固まる。
「フウカ」
救いのように、低く穏やかな声が響いた。アッシュだ。彼はいつの間に近づいたのか、フウカとアレクの間に、割って入るわけでもなく、けれど確実に二人を分断する位置に立った。
「アレク。会員への接触は、担当トレーナーを通してからにしてくれと言ったはずだ。彼女は今、自分のリズムを整えている」
「ああ? なんだアッシュ、相変わらずガードが固えな。ちょっとアドバイスしようとしただけだろ」
アレクは冗談めかして笑い、フウカの肩を軽く叩こうとした。その瞬間、フウカの身体が目に見えて強張った。
「触れるな」
アッシュの声は淡々としていたが、その温度は限りなく絶対零度に近い。アレクの手が空中で止まる。
「……フウカ、一度マシンを降りて。深呼吸だ」
アッシュの促しに、フウカは絞り出すように「失礼します」と告げ、逃げるようにその場を去った。背後でアレクの戸惑ったような声が聞こえる。
「……変わってるな。俺の顔見て、そんなに怯える必要ねえだろ。俺、何かしたか?」
その後、ジムの中央でアレクによる「増量セッション」が始まった。
「いいか! 筋肉をデカくしたきゃ、限界を超えて追い込むんだ! その一回、その一秒の苦痛が未来の自分を作る! ほら、重量上げろ!」
アレクの指導は「剛」の極致だ。破壊と再生。苦痛を美徳とし、肉体を極限まで追い詰めるその咆哮は、アッシュが築き上げてきたこのジムの空気を根本から揺らしていた。
「───アレク」
アッシュが静かに歩み寄り、アレクが補助していたバーベルを指先で制した。
「君の『筋肥大』の哲学は尊重する。だが、ここは『柔』のジムだ。ここに来る人たちの多くは、自分を壊すためではなく、整えるために来ている。過剰なストレスは、今の彼女たちには毒にしかならない」
「ちっ……まどろっこしいぜ。まあいい、郷に入っては郷に従え、だ。アッシュ、お前のその『綺麗事』に、今は付き合ってやるよ」
アレクは渋々といった様子でバーベルを置いた。その様子を陰で見守っていたフウカは、ようやく少しだけ息がつけるようになった。
休憩室。フウカは紙コップの水を両手で包み、小さく何度も息を吐いた。
「……ごめんなさい、アッシュさん」
隣に座ったアッシュに、消え入るような声で謝罪する。
「アレクさんに、ちゃんと『嫌だ』って言えなくて。私、やっぱりダメですね……」
アッシュはしばらく黙ってフウカの震える手元を見つめていた。やがて、彼はフウカの頭に触れるか触れないかの距離で、優しく語りかけた。
「フウカ。言葉にできないなら、今は言わなくていい」
「……え?」
「身体が拒否反応を示した。その感覚自体が、君にとっての動かしがたい『真実』だ。理由なんて、後から探せばいい。あるいは、一生見つからなくても構わない。その感覚を、君自身が否定してはいけないよ」
その言葉に、胸の奥の澱が溶けていく感覚があった。
「君が言葉にできない間は、俺が君の前に立つ。それで十分だ。君は自分の感覚を信じていればいい」
帰り際。ジムの廊下の角で、大きな影が再び立ちはだかった。アレクだ。
「……なあ。俺、お前に何かしたか? 覚えがねえんだが」
「……」
「嫌われる理由がわからないのは、結構、堪えるんだよ。もし俺の何かが気に食わないなら、ハッキリ言ってくれねえか。直せるなら直すからよ」
アレクの言葉は、彼なりに真摯だった。けれど、その「ハッキリ言え」という無言の強制が、フウカの喉をひくりと鳴らす。説明できないのだ。彼が近づくだけで、視界の端が白く飛ぶこと。彼の声が、記憶の底にある「誰か」の残響を呼び覚ますこと。
「……すみません。……ごめんなさい」
フウカは謝ることしかできず、その場を走り去った。アレクはため息をつきながら頭を掻いた。
「……まあ、いいや。そのうち、慣れるだろ」
その「慣れるだろ」という言葉が、フウカの胸に重く沈んだ。
(慣れたくない。……慣れてしまったら、私は私じゃなくなる)
アッシュが守る「柔」の聖域に打ち込まれた、アレクという「剛」の楔。この拭えない違和感は、彼女が失った記憶の扉を叩く、激しいノックの音だった。




