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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第2節 触れない優しさと、守られる体幹【定着編】

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09.確かな距離、静かな温度


 朝のジムは、フウカにとって一日のうちで最も愛おしい場所になっていた。高い天井に反響する、澄んだ空気の震え。窓から差し込む朝日は、宙を舞うわずかな塵さえも祝福するように輝かせている。金属製のプレートが触れ合う音、使い込まれたレザーの匂い、そして自分自身の静かな呼吸音。


 フウカはストレッチマットの上で仰向けになり、アッシュから教わった「ニュートラル・ポジション」を確認していた。腰とマットの間に手のひら一枚分の隙間。骨盤の左右の出っ張りと恥骨を結ぶ三角形が床と平行。


「……ふぅ」


 深い吐息とともに、肋骨がすっと内側へ滑り落ちる。腹部の深層にある腹横筋が、コルセットのように体幹を強固に支える感覚。


「いい呼吸だ。深層部にしっかり火が灯っている」


 頭上から、静かな、けれど確信に満ちた声が落ちてくる。


 アッシュ・ナイトハルト。


 彼は今日も、非の打ち所のない立ち姿でそこにいた。彼の筋肉は、見せるためだけの飾りではない。関節を保護し、四肢を自在に操るための、機能美に溢れた「動くための筋肉」だ。


「おはようございます、アッシュさん。はい、インナーマッスルが目覚めると、視界までクリアになる気がします」


 フウカはスッと起き上がり、アッシュと視線を合わせた。以前の彼女なら、自信のなさから目を逸らしていただろう。だが今の彼女は、自分の変化を素直に受け入れている。


「睡眠の質が安定してきた証拠だ。副交感神経と交感神経の切り替えがスムーズになっている」


 アッシュはタブレットを操作し、フウカのデータをチェックする。


「……楽しい?」


 不意の問いに、フウカは迷わず頷いた。


「楽しいです。今まで体は『隠さなきゃいけない荷物』だと思っていました。でも今は、手をかければかけるほど、軽くなって返ってくる。それが嬉しいんです」

「それがトレーニングの、本当の価値だ。君の体は、君の意志に応える準備ができている」


 アッシュはそれ以上、踏み込まない。フウカの主体性を尊重し、見守る。その適度な距離感が、彼女には心地よかった。




 昼休み。ジムに併設されたテラスで、フウカはアッシュが用意してくれたランチボックスを開いた。


「今日のメインは、低温調理した鶏むね肉と三種の豆のサラダだ。クミンとレモンで風味をつけてある。消化を助け、午後の活動代謝を落とさない構成だ」

「美味しい……! パサつきが全然なくて、しっとりしてます」


 一口運ぶと、肉の旨味とスパイスの爽やかさが広がる。


「不思議です。ダイエットって、何かを必死に我慢して自分を削るものだと思っていました。でも、アッシュさんといると、どんどん満たされていく感じがします」

「それは、これまでの君が『欠乏』を基準に動かされていたからだ」


 アッシュは自分のハーブティーを一口含み、静かに言った。


「僕が君に求めているのは、削ることじゃない。整えることだ。不要な緊張を捨て、必要な栄養で細胞を満たし、本来の骨格を取り戻す。それはマイナスの作業ではなく、自分という存在を再構築するプラスの作業なんだよ」

「整える……」


 その言葉が、フウカの胸に温かく沈んでいく。自分という土台を肯定されたのは、人生で初めてのことだった。




 午後、フウカがマシンのメンテナンスを手伝っていると、ジムの入り口の扉が勢いよく開いた。室内の空気密度が劇的に変わる。そこに立っていたのは、圧倒的な質量感を持つ男だった。


 アッシュの「しなやかさ」とは対極にある、岩盤のような重厚感。横に張り出した広背筋、分厚い大胸筋。歩くたびに床が鳴るような錯覚を覚える。


「お、ここか。アッシュの新しい拠点ってのは」


 野太い声が空間を震わせる。


(……え?)


 フウカは、背筋に走る奇妙な微震を感じた。怖いわけではない。嫌いなわけでもない。ただ、どこかで見覚えがあるような、懐かしくも胸がざわつく感覚。


(誰かに似ている気がする……。でも、思い出せない)


 男はズカズカとフウカの方へ歩み寄ってきた。パーソナルスペースなどお構いなしの、ゼロ距離の侵入だ。


「おい、お前。いい面構えだな。だがちょっと細すぎる。もっとバルクアップして、重いもん持たないとダメだぞ! 筋肉こそが人生の正解だからな!」


 男は屈託のない、輝くような笑顔で言い放つ。悪気は微塵もない。ただ、自分の信じる「最高」を親切心から押し付けているだけなのだ。


「……あ、あの、私は今、アッシュさんと『整える』トレーニングをしていて……」


 フウカは戸惑いながらも、ハッキリと断りを入れる。


「整える? まどろっこしい! 壊して作る、それが超回復の極意だろうが!」


 男の圧倒的なパワーに圧されていると、いつの間にかアッシュが二人の間に割って入っていた。


「アレク。僕のクライアントに、自分の価値観を押し付けるのはやめてもらおうか」


 アッシュの瞳には、かつてないほどの鋭い光───「対等なライバル」に向けるような警戒の色が宿っていた。


「ははっ! 相変わらずカタいな、アッシュ。俺はただ、彼女のポテンシャルを見てアドバイスしただけだ」


 アレク・ホロウフィールド。


 彼は豪快に笑い、フウカの肩をポンと叩こうとして……アッシュにその手を静かに制止された。


「……フウカ。少し奥で休んでいて。彼は今日からヘルプで入るアレクだ。腕は確かだが、少々……デリカシーという筋肉ものが欠けている」

「わ、わかりました……」


 フウカはアレクの顔をもう一度盗み見た。その真っ直ぐで不器用そうな瞳。誰かに、とても大切な誰かに似ている気がして、胸の奥がチクリと痛んだ。


 静かで整っていた世界に、巨大な異物が楔を打ち込んだ。これが、フウカの忘れた記憶と、アッシュとの絆を試す嵐の始まりになるとは、まだ誰も気づいていなかった。

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