08.それでもここにいる
朝の光が、ジムの磨き上げられた床に、長方形の明るい紋様を描き出していた。フウカは、いつもと同じ時間に、深い眠りの淵から滑り出すように目を覚ました。かつての彼女――眞嶌颯華を苦しめていた、泥のような倦怠感や、心臓を締め付ける予期不安はもうどこにもない。
目を開けた瞬間、肺の隅々まで新鮮な空気が満ちる。横たわったまま、腹式呼吸で横隔膜を上下させ、内臓をゆっくりと目覚めさせる。それだけで、今日という一日が正しく機能することを確信できた。
(……よく眠れた。それだけで、十分)
身体の「声」を聴くことができる。それはアッシュに教わった、何物にも代えがたい財産だった。
ジムの一日は、心地よい定型のなかで進んでいく。早朝の騎士たちの力強い足音。年配の女性たちが交わす穏やかな挨拶。そして、木製の床に響く、アッシュの凛とした声。
フウカは受付で会員たちの体調管理表を整理しながら、その空間の一部であることに深い充足を覚えていた。かつての自分が、数字やノルマに追われ、他人の評価という「不確かなもの」に依存していたことなど、もはや遠い前世の記憶のように霞んでいる。
不意に、アッシュと目が合った。彼はスクワットの補助をしていたが、フウカと視線がぶつかった瞬間、唇の端をほんのわずかに押し上げた。
(……夢じゃなかった)
昨夜、彼と交わした言葉。肌に触れた熱。閉じ込められるような強い抱擁。記憶のない自分を「それでも惹かれている」と肯定してくれた一人の男の熱。フウカは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じ、誰にともなく小さく会釈した。
昼休み。二人はジムの裏手にある、ハーブの香りが漂う石造りのベンチに腰を下ろしていた。王都の喧騒は遠く、木々の葉が擦れ合う音が、メトロノームのように等間隔で響いている。
「フウカ」
アッシュが、手元の水筒を置き、静かに口を開いた。
「ここでの生活に、不安はない? 自分が誰だったのか……それを思い出せないまま、ここで時を過ごすことに」
彼の瞳には、まだかすかな影が宿っている。それは彼女を想うがゆえの、罪悪感に近い懸念だった。フウカは、膝の上で揃えた自分の手を見つめた。かつては浮腫んで重たかった指先が、今は適度な筋緊張と血流を得て、白く美しく整っている。
「不安より……楽しいです。本当に」
フウカは顔を上げ、眩しそうに目を細めた。
「呼吸が深くなるたびに、自分が新しく作り変えられていくみたいで。アッシュさんが用意してくれる食事はどれも生命の味がするし、何より……」
彼女は、隣に座る青年の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ちゃんと、私を『今の私』として見てくれる人がいる。それが、こんなに安心することだなんて、知らなかったんです」
アッシュの指先が、ベンチの端でぴくりと動いた。
───言えない。
君がかつて、冷たいデジタルの光のなかで泣いていた少女だったことも。僕という存在が、かつてはプログラムという虚像に過ぎなかったことも。君を今の生活に留めておくことが、ある種の「逃避」かもしれないということも。けれど、アッシュはそれらを喉の奥で飲み込んだ。
「……そうか。君がそう言ってくれるなら、今は、それでいいんだ」
午後の個人トレーニング。フウカの動きは、数日前とは比較にならないほど洗練されていた。
「次は、シングルレッグ・デッドリフト。軸足の膝をロックさせないように。中臀筋で骨盤を水平に保って」
アッシュの指示に対し、フウカの身体は即座に反応する。片足を後ろに引くと同時に、上半身を倒していく。頭の先からかかとまでが一直線のラインを描き、Tシャツ越しにも脊柱起立筋が美しく働いているのが分かる。
「いいフォームだ、フウカ。無理をしていない。重力に抗うのではなく、自分の重心をコントロールできている」
アッシュの賞賛は、フウカの心にスッと染み渡った。以前の自分なら、褒められても「もっとやらなきゃ」「嫌われないようにしなきゃ」と、強迫的な焦りに変換していただろう。けれど今は、ただ純粋に、自分の肉体という楽器を正しく奏でられることが誇らしかった。
(……前の私、どんなだったんだろう)
一瞬、思考が過去へ飛ぼうとする。階段から転落した瞬間の、あの白い光。その向こう側にある、自分を切り捨てた誰かの影。
けれど、その思考はすぐに、足の裏から伝わる大地の確かな感覚によって上書きされた。思い出さなくてもいい。「欠落」しているのではなく、ここから「始まっている」のだ。
ジムの灯りが一つ、また一つと落とされていく。最後の一枚のタオルを畳み終え、フウカはジムの出口に立っているアッシュに歩み寄った。
「今日も、ありがとうございました。アッシュさん」
アッシュは、鍵を握る手に力を込め、ゆっくりと首を振った。
「礼を言うのは、僕のほうだ。……フウカ。ここに来てくれて、ありがとう」
「え……?」
その声音が、あまりにも切実で重たかったため、フウカは瞬きを繰り返した。アッシュはいつもの穏やかな表情を取り戻し、「なんでもない」と笑ったが、その瞳には夜空の星を映したような決意が宿っていた。
───言えないことがあっても。隠していることが嘘だとしても。
今、この瞬間に彼女が選び取った「幸せ」を、自分が守り抜く。それが、アプリの教官だった彼が、初めて抱いた「神への反逆」にも似た誓いだった。
外に出ると空には、現実世界では決して見ることのできない、色鮮やかな星雲がたなびく夜空が広がっていた。
「星、きれいですね」
「ああ。この街の星は、いつだって正しい場所を照らしている」
アッシュはそう言うと、隣を歩くフウカの手をそっと取った。指先が触れ合い、掌が重なる。強くもなく、弱くもない。けれど、決して解くことはないという意志だけが脈動となって伝わってくる。
「フウカ。……これからも、ずっとここにいろ。俺が、君のすべてを支える」
フウカは、その大きな手に自分の指を絡ませ、深く頷いた。
「はい。私も、ここにいたいです」
彼女は知らない。自分が時空を越えた異邦人であることを。けれど、自分が今、呼吸をするたびに愛されていることだけは、誰よりも深く知っている。
アッシュは、振り返らなかった。過去にも、元の世界にも、救えなかった未熟な自分にも。彼が見つめるのは、ただ一つ。隣で柔らかな笑みを浮かべ、新しい筋肉と心を手に入れた、フウカという唯一無二の現実だけだった。




