07.選ぶということ
翌朝、フウカはアラームの力を借りることなく、いつもより数分早く目を覚ました。
窓の向こうには、王都の空が淡い群青色から琥珀色へと移ろいゆく情景が広がっている。昨夜、アッシュに拒絶され、胸を引き裂かれるような思いで眠りについたはずなのに、今の彼女の心は、冬の朝の湖面のようにひどく静かで澄み渡っていた。
(……決めた、からだ)
鏡の前に立ち、自分の姿をじっと見つめる。そこには、かつてアプリの向こう側で絶望していた「眞嶌颯華」の面影は、もうほとんど残っていない。
腹横筋がコルセットのように体幹を支え、肩甲骨が正しい位置に収まったことで、鎖骨のラインは真っ直ぐに、そして美しく整っている。何より、瞳に宿る意志の光が違った。
思い出さなくてもいい。元の自分が誰で、どんな過去を背負い、誰に否定されていたのか。そんな「外部からの定義」は、今の彼女には必要なかった。
───今、ここで呼吸し、アッシュの隣で心拍を速めているこの「私」の感情だけは、何者にも奪わせない。
ジムの朝は、いつものように規則正しく始まった。フウカはエプロンを締め、受付で会員たちの体調チェックシートを整理しながら、アッシュの姿を目で追った。彼は、いつも通りだった。背筋を伸ばし、淀みのない動作で会員にランジのフォームを指導している。
「膝が前に出すぎないように。大臀筋に体重を乗せて。そう、そこで三秒キープです」
声は穏やかで、その指導は完璧だ。けれど、フウカには分かってしまった。彼が一度も、彼女の方を見ようとしないことに。
(……逃げてる。私を傷つけないためじゃなくて、自分が揺らがないために)
アッシュは、彼女が記憶を取り戻すという「不確定な未来」に縛られ、今この瞬間に目の前にいる「フウカ」を直視することを恐れている。
午後の休憩時間、会員たちが引き上げ、ジムが静寂に包まれた瞬間を、フウカは見逃さなかった。
「アッシュさん、話があります」
短い言葉。けれど、これまでにないほど強固な芯を込めた。アッシュは器具を拭いていた手を止め、背中でわずかに息を呑んだ。彼はゆっくりと振り返り、どこか諦めたような、悲しい微笑みを浮かべた。
人気のないトレーニングルーム。夕方の光が長く伸び、マットの上に二人の長い影を落としている。
「昨日の夜、言われましたよね。今の私はまだ“途中”だって」
フウカは、アッシュの胸元に視線を据え、一歩、歩み寄った。アッシュは逃げるように視線を落とし、沈黙を守っている。
「でも、私は今の自分で、選びたいんです。アッシュさんが言うように、記憶が戻ったら別の感情が湧くのかもしれない。でも、それは『未来の私』の課題です。今の私が、あなたの隣にいたいと願い、あなたの声に救われ、あなたのことが好きだと思っている事実は……たとえ記憶が戻っても、消えることはないんです」
「……それは、危うい考えだ、フウカ」
アッシュがようやく口を開いた。その声は微かに震えている。
「記憶がない君は、砂の上に家を建てているようなものだ。もし、かつての君に、僕よりもずっと深く愛し合っていた人がいたら? 僕という存在が、ただの『一時的な避難所』に過ぎなかったと気づいたら……その時、君は自分を責めることになる」
「後悔するかどうかは、未来の私に任せます」
フウカは、アッシュの大きな掌を両手で包み込んだ。驚いたアッシュが顔を上げる。
「今の私は、アッシュさんが教えてくれたトレーニングのおかげで、自分の足で立てるようになりました。誰かの顔色を窺うためじゃなく、自分が心地よくあるために呼吸ができる。そんなふうに私を変えてくれたのは、記憶の中の誰かじゃなくて、目の前にいるあなたなんです。……だから、逃げないでください」
アッシュの瞳が、激しく揺れた。彼は指導者として、常に論理的で、冷静で、フウカを「導く側」であろうとしてきた。けれど、その強固な防壁が、フウカの剥き出しの誠実さによって、音を立てて崩れていく。
「……ずるいな、君は」
アッシュが、自嘲気味に呟いた。
「俺は、君がすべてを思い出すまで、指一本触れないつもりだった。君がどんな選択をしてもいいように、俺という執着を残さないように……そう決めていたんだ。でも、そんなふうに言われたら」
アッシュがゆっくりと視線を上げ、フウカの瞳を捉えた。そこにはもう、トレーナーとしての仮面はなかった。一人の男としての、渇望と熱が渦巻いている。
「俺だって、普通の男なんだ。君がここに来てから、ずっと……一秒たりとも、君から意識を逸らせたことなんてない」
アッシュの指先が、フウカの頬をなぞる。今度は、迷いも、躊躇いもない。
「朝、起きてから眠るまで。君が笑うところも、汗をかきながら一生懸命にプランクを耐えるところも、体が変わっていくのを喜ぶ顔も……。全部、俺だけのものにしたいと、醜い独占欲に駆られていた」
フウカの鼻腔に、アッシュの清潔な、けれど熱を帯びた匂いが届く。
「……フウカ。記憶が戻らなくても、戻って俺を捨てたとしても……それでもいいと言うなら」
「はい。私は、今のあなたが好きです」
フウカが答えを言い終わる前に、アッシュは彼女を強く、壊してしまいそうなほど強く抱き締めた。
「……っ、離したくない」
彼の顔が、フウカの肩口に埋められる。鍛え抜かれた彼の肉体が、フウカの身体を包み込む。それは現実世界で和眞に抱きしめられた時のような、重圧感のあるものではなかった。フウカの骨格とアッシュの肉体が、まるでパズルのピースが合うように、完璧な配置で重なっている。
「守るつもりで、君を閉じ込めるところだった」
「閉じ込められてなんていません。私、自分の足で、ここに来たんですから」
フウカは、彼の背中に腕を回し、その広い背中の筋肉の鼓動を感じた。アッシュはゆっくりと顔を上げ、フウカの額に、慈しむような深いキスを落とした。
唇を重ねることはしなかった。それは、彼が残した最後の、そして最大の「誠実さ」という名の理性だった。今の感情を分かち合う。けれど、彼女の「すべて」を奪うのは、彼女が本当の意味で自分の過去と向き合う時まで取っておく。
二人の関係は、はっきりと変わった。それは依存でも、単なるリハビリでもない。互いのインナーマッスルを支え合うような、対等で、力強い「選択」の物語へと進化したのだ。
その日の夜。フウカはベッドに横たわりながら、自分の心臓の音を聴いていた。アッシュの腕の中にいた時の熱が、まだ肌に残っている。
(記憶がなくても、私はここにいる。自分で選んで、愛されている)
窓の外では、王都の星々が瞬いている。かつて自分が「自分を好きになりたい」と願ってダウンロードしたアプリ。あの時の願いは、今、これ以上ない形で叶っていた。
一方、自室の窓辺に立つアッシュは、夜風に吹かれながら独り言を漏らした。
「……このまま、戻らないでいい」
それは、かつて「彼女を救いたい」と願った教官としては、あるまじき不実な願い。けれど、一人の男としては、どうしようもない本音だった。彼女が記憶を取り戻したとき、この楽園は崩壊するのか。
それとも、新しい扉が開くのか。答えはまだ、誰にもわからない。ただ、二人の呼吸が重なり合ったこの一日は、永遠に彼らの細胞に刻み込まれる。




