06.それでも惹かれる
その日のジムは、いつも以上の活気に包まれていた。王都の近衛騎士団が非公式の合同トレーニングに訪れており、空間には重厚な熱気と、激しい呼気、そして肉体がぶつかり合う鈍い音が満ちている。フウカは、その喧騒の中を軽やかな足取りで動き回っていた。
記憶を失ってから数週間。彼女はこの場所の「一部」になっていた。会員たちの名前を覚え、それぞれのトレーニングの癖を把握し、絶妙なタイミングで冷たい水や清潔なタオルを差し出す。
「フウカ、いつも気が利くね。助かるよ」
巨漢の騎士が、彼女から受け取ったタオルで顔を拭きながら豪快に笑う。
(……馴染むのが、早すぎるくらいだ)
少し離れた場所で、アッシュはその光景を静かに見つめていた。
現実世界での彼女───眞嶌颯華は、常に周囲の顔色を窺い、自分の居場所を必死に探しているような危うさがあった。しかし今の彼女には、それがない。他者にどう見られるかという「評価」の尺度を失った代わりに、彼女は「今、目の前の人のために何ができるか」という純粋な献身を手に入れていた。
───恐れる理由を、彼女はまだ知らない。
自分がかつて拒絶されたこと。美しくなければ愛されないと呪いをかけられたこと。その無垢さが、アッシュの胸をチリリと焼いた。
夕方のクラスが一段落し、ジムにオレンジ色の斜光が差し込む頃。フウカは一人、誰もいなくなったマットの上で、アッシュに教わったコブラのポーズ《ブジャンガ・アーサナ》を繰り返していた。
「……あれ、なんか上手くいかないな」
上体を起こすとき、どうしても腰に詰まったような感覚がある。その様子に気づいたアッシュが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「フウカ、無理に高く上げようとしなくていい。腕の力で押すんじゃなく、胸骨を遠くに引き出すイメージだ。……少し、フォームを見てもいいかな?」
「はい、お願いします。……アッシュさん、ここ、力が入りすぎてるんでしょうか」
フウカがうつ伏せの状態から、迷いなく問いかける。アッシュは一瞬、その場に立ち尽くした。
本来、パーソナルトレーナーとして、クライアントの骨格の向きや筋肉の収縮を触知して修正するのは、日常的な「技術」だ。しかし、今の自分にとって、彼女に触れるという行為は、それ以上の意味を持ってしまう。
「……触診、触って確認したほうが、わかりやすいんだけど」
アッシュの言葉が、わずかに揺れる。フウカは、ほんの一瞬だけ考え、それから柔らかく微笑んで答えた。
「……お願いします。アッシュさんの手なら、安心ですから」
その信頼に満ちた瞳に見つめられ、アッシュは覚悟を決めるように膝をついた。躊躇いがちに、彼の長い指先がフウカの背中に触れる。
「……っ」
二人の呼吸が、同時に止まった。薄いトレーニングウェア越しに伝わる、フウカの体温。しなやかに整い始めた脊柱起立筋の弾力。
それは、かつてアプリの画面という「壁」に隔てられていた時には、決して得ることのできなかった、圧倒的な「生」の質感だった。
「……ここ、広背筋の下部が眠っている。もっと肩甲骨を下げて、脇を締めるんだ」
アッシュの指先が、彼女の背中をなぞるように動く。フウカの肩が、びくりと震えた。
「あ……」
フウカの呼気が浅くなる。アッシュの指が触れている場所から、熱が同心円状に広がっていく。それは筋肉の伸長による熱ではなく、もっと根源的な、魂が呼び合うような熱だった。
「……ごめん」
アッシュは、弾かれたように手を離した。立ち上がり、背を向ける。
「今日は、もう終わりにしよう。君も、疲れているみたいだ」
距離が戻る。冷たい空気が二人の間に割り込む。けれど、一度触れ合ってしまったことで生じた「火種」は、消えるどころか、静かに燃え広がり始めていた。
その夜。ジムの裏口で、フウカは立ち止まっていた。夜風が彼女の髪を揺らし、遠くで夜鳥の鳴き声が響く。
「アッシュさん」
片付けを終えて出てきたアッシュを、彼女の声が引き止めた。
「……さっきの、嫌じゃなかったです」
フウカは真っ直ぐにアッシュを見つめていた。隠し事も、駆け引きもない。ただ、そこにある真実を差し出すような瞳。
「私、アッシュさんといると、すごく落ち着くんです。自分が誰なのか分からなくても、アッシュさんの隣にいる時だけは、私は私でいていいんだって思える。安心して、呼吸ができるんです」
アッシュは、しばらく何も言わなかった。夜の闇に紛れて、彼の表情は読み取れない。
「……それ以上、言わなくていい」
ようやく絞り出された声は、低く、どこか切なげだった。
「今の君は、まだ“途中”だ、フウカ」
「途中……?」
「そう。君の記憶も、今のその高揚した気持ちも。君はまだ、自分自身のすべてを思い出したわけじゃない」
アッシュは、フウカから視線を逸らすように夜空を見上げた。
「だから……俺が、君に惹かれているということも、今は認めるわけにいかない」
フウカは息を呑んだ。「惹かれている」。その言葉が、アッシュの口からこぼれたという事実だけで、胸が千切れそうなほどに跳ねる。
「……惹かれているなら、どうして。アッシュさんも同じ気持ちなら……」
「それを、利用したくないんだ」
アッシュは、はっきりと言い切った。
「君は記憶を失い、頼れる者が俺しかいない状況にいる。その不安定な心理状態で生まれる感情を、俺が拾い上げるのは、トレーナーとしても、男としてもフェアじゃない。君がいつかすべてを思い出したとき……俺を選ばなかったとしても、俺はそれを受け入れる覚悟でいる」
その言葉は、あまりにも誠実で。そして、今のフウカにとっては、あまりにも残酷な「拒絶」に聞こえた。
「……利用だなんて、そんなこと。私は、今のこの気持ちを、嘘にしたくない!」
フウカは一歩、アッシュに歩み寄った。けれど、アッシュは動かなかった。彼が自分自身に課した「触れない」という規律が、見えない壁となって二人を隔てている。
「……ごめん」
アッシュはそれだけを残し、夜の静寂の中へと消えていった。
その夜、フウカはベッドの中で何度も寝返りを打った。
(……途中、か)
アッシュの言うことは、理屈では理解できる。記憶が戻ったとき、自分は今の「フウカ」ではなくなるのかもしれない。全く別の、誰かを愛していた自分に戻るのかもしれない。
(でも……それでも。今の私が感じているこの熱は、何なの?)
アッシュに触れられた背中の感覚が、まだ消えない。彼と一緒に呼吸を整え、彼と一緒に笑い、彼に認められることで救われてきた、この数週間の日々。それは、記憶という不確かなものよりも、ずっと「真実」に近い気がした。
一方、アッシュもまた、自室の窓辺で眠れぬ夜を過ごしていた。
(……俺は、逃げているだけだ)
彼女を守るため、という大義名分を掲げて、実際には自分が傷つくのを恐れている。彼女が記憶を取り戻し、もしもかつての恋人のもとへ帰りたいと言い出したら。その時、自分が彼女を繋ぎ止める権利を持たないことを、再確認するのが怖いだけなのだ。
かつて、アプリの教官だった頃の自分。あの時は、彼女に触れることさえ叶わなかった。ただ言葉で導くことしかできなかった。実体を手に入れ、目の前に彼女がいる今、その想いは制御不能なほどに膨れ上がっている。
「……もう、手遅れなんだ」
アッシュは、月光に照らされた自分の掌を見つめた。
そこにはまだ、彼女の背中のしなやかな温もりが残っている。触れない距離。それは、彼女が「自分自身の足で立てるようになるまで」の猶予期間。
けれど、この夜を境に、その距離を保つことは、二人の身体にとって何よりも過酷な「トレーニング」へと変わってしまった。




