05.触れない距離
朝のジムは、冷たく澄んだ空気が張り詰めている。王国公認トレーナー、アッシュ・ナイトハルトが管理するこの場所には、夜明けとともに熱心な会員たちが集まってくる。かつての現実世界での「ジム」が、自分を追い込み、他者と競い合うための戦場だったとしたら、ここにあるのはもっと根源的な「生命の調律場」だった。
フウカは、ジムの端にある木漏れ日の差し込むスペースで、一人、ストレッチマットの上に腰を下ろしていた。
「……昨日より、股関節の可動域が広がってる」
自分の体に意識を向ける。かつては、ただ「重い」か「太い」かでしか判断できなかった自分の身体が、今は精緻な楽器のように感じられた。
足の付け根にある腸腰筋を意識しながら、ゆっくりと上体を前に倒す。無理に伸ばすのではなく、呼吸を送り込み、筋肉の緊張が解けるのを待つ。
アッシュは、数メートル離れた場所で、別の会員に骨盤の動かし方を指導しながらも、その意識の端で常にフウカを捉えていた。
「フウカ、無理してない?」
ふいに投げかけられた柔らかな声。フウカは顔を上げ、満面の笑みを返した。
「してません。ちゃんと、気持ちいいです! 自分の体が、今どこを向いているのかが分かるようになってきました」
そう答えると、アッシュは一瞬だけ、安堵したように細く息を吐いた。その、ほんのわずかな感情の揺れを、フウカは見逃さなかった。
(……アッシュさんは、いつも私を心配してくれる)
記憶を失う前の自分が、どれほど脆く、壊れかけていたのか。今のフウカには知る由もない。けれど、彼が向けてくれる眼差しには、傷つきやすい宝物を扱うような、どこか祈りに似た慎重さが含まれていることに気づいていた。
体は、確実に、そして劇的に変わっていた。今のフウカは、体重計の数字など一度も見ていない。この世界には、彼女を追い詰めるデジタルな数値は存在しなかった。代わりに彼女を支えるのは、鏡に映る「自分自身の輝き」だった。
猫背で巻き肩だった背中は、僧帽筋下部と│前鋸筋が正しく機能し始めたことで、スッと真っ直ぐに伸びている。重心が安定し、歩くたびに地面を力強く、かつ静かに捉えることができる。何より、記憶を失う前の「眞嶌颯華」を覆っていた、澱のような自己否定が消え去っていた。
「フウカさん、今日もいい笑顔ね。こっちまで元気になるわ」
常連の婦人が、爽やかに汗を拭きながら声をかけてくる。
「ありがとうございます! 私、体を動かすことがこんなに楽しいなんて、知らなかったみたいです」
フウカの笑顔は、混じり気がなく、ひどく真っ直ぐだった。本来の彼女は、真面目で、朗らかで、人の幸せを自分のことのように喜べる性質を持っていた。ダイエットの呪縛から解き放たれ、アッシュという存在に肯定され続けたことで、その美点がようやく芽吹いたのだ。
アッシュは、受付カウンターの陰から、会員たちと談笑する彼女を黙って見つめていた。その表情には、目的を達した者の満足感と、それゆえの寂しさが同居していた。
体調が安定したフウカは、アッシュの勧めでジムの手伝いを始めた。
「フウカ、このリストの備品をチェックしてもらえるかな? それから、あそこのマットをフォームローラーと一緒に片付けておいてほしい」
「はい! お任せください、アッシュさん」
フウカは甲斐甲斐しく動き回った。受付での挨拶、使い終わった器具の消毒、タオルを一枚一枚丁寧に畳む作業。どれも地味な仕事だが、フウカはそれを楽しそうに、完璧にこなした。
「ありがとう。君がいると、ジムの空気が柔らかくなる」
アッシュにそう言われるたび、胸の奥がきゅっと締め付けられる。自分が誰なのかは分からない。けれど、今、この場所で、アッシュという人の役に立てている。その実感が、彼女の空っぽだった心を温かい光で満たしていく。
(……私、アッシュさんのことが、好きなんだ)
それは、もはや疑いようのない事実だった。教官としての尊敬。命の恩人としての感謝。そして、一人の男性としての、深い思慕。けれど、フウカは気づいていた。アッシュが、決して自分からその距離を縮めようとしないことに。
夕方、ジムの混雑が落ち着いた頃。アッシュは自分自身のコンディションを整えるために、軽い自重トレーニングを始めた。フウカは、少し離れた場所から、彼の背中を見つめていた。
アッシュの筋肉は、和眞のような「威圧感」を放つものではない。関節の可動域を最大限に活かした、しなやかで機能的な体。動くたびに、広背筋が波打つように動き、無駄のないエネルギーの伝達が行われる。
(アッシュさんの筋肉は、優しいんだ……)
それは、誰かを打ち負かすための力ではない。誰かを支え、導き、そして守るための力。彼の指導方針と同じく、その肉体もまた「調和」を体現していた。
「……フウカ?」
不意に名前を呼ばれ、フウカは肩を揺らした。アッシュがバーから手を離し、静かな動作で着地していた。
「最近、本当に顔つきが変わったね。姿勢が整うと、心まで安定してくるだろう?」
「はい……。ここに来てから、ずっと毎日が楽しいんです。アッシュさんが、私に『整える』ことを教えてくれたから」
フウカの真っ直ぐな言葉に、アッシュは一瞬だけ、困ったように視線を逸らした。そして、何かを堪えるように微笑む。
「……それは、よかった。君が君自身の手で、その感覚を掴んだんだよ」
───彼は、常にフウカを尊重していた。
───距離は、触れられるほどに近い。
───けれど、彼は一線を越えない。
フウカがどんなに慕わしげな視線を向けても、彼は「良き指導者」としての枠を出ようとしなかった。それはフウカにとって、深い安心感であると同時に、小さな、けれど確かな痛みを伴う切なさでもあった。
夜。ジムの灯火が消え、静寂が支配する休憩室。二人は、薬草茶の入ったカップを挟んで向かい合っていた。
「アッシュさんは……」
フウカは、窓の外に広がる王都の夜景を見つめたまま、意を決して聞いた。
「誰か、忘れられない人がいたりするんですか?」
アッシュの手が、一瞬だけ止まった。窓から差し込む月光が、彼の横顔を青白く照らし出す。
「……どうして、そんなことを?」
「アッシュさんの優しさは、なんだか……誰かをずっと見守ってきた人の優しさみたいだから」
アッシュは、ゆっくりとカップを置いた。その瞳の奥には、数え切れないほどのデータと、それ以上に深い、人間らしい情愛が渦巻いていた。
「……そうだね。昔、救いたかった人がいた。でも、その時の僕には実体がなくて、ただ言葉をかけることしかできなかった」
その言葉の意味を、フウカは理解できなかった。実体がない?けれど、アッシュの声に宿る深い後悔だけは、肌に刺さるように伝わってきた。
「今は……?」
「今は、フウカが大事だよ。君が今、笑っていられることが、僕にとってのすべてだよ」
それは、愛の告白というにはあまりにも献身的で、けれど友情と呼ぶにはあまりにも重い言葉だった。
その夜、フウカは毛布にくるまりながら、ふと思った。
(もし、私の記憶が戻ったら……この幸せな時間は、終わってしまうんだろうか)
今の自分は「フウカ」だ。アッシュに救われ、呼吸を知り、自分を愛し始めたばかりの、真っ白な存在。けれど、記憶の向こう側には、自分を捨てた男や、ボロボロになった自分の肉体が待っているのかもしれない。
アッシュは、私を「守りたい」と言ってくれた。けれど、彼が守ろうとしているのは、記憶のない「今の私」なのか。それとも、彼が知っているらしい「かつての私」なのか。
(……それでも)
フウカは、そっと自分の胸に手を当てた。規則正しく、強く打つ鼓動。
アッシュと一緒に鍛え、整えてきた、このインナーマッスルだけは、嘘をつかない。
「たとえ何があっても、私は私の足を、この地面につけて生きていく。アッシュさんの隣で」
不安を飲み込むように、フウカは深く、長い呼吸を繰り返した。明日の朝になれば、また新しい「整える」時間が始まる。それだけでいい。今は、それだけで。




