04.フウカとして生きる
目覚めてから数日、フウカの世界は、驚くほど静かで穏やかなリズムを刻んでいた。窓から差し込む光の角度で朝を知り、遠くから聞こえる教会の鐘の音で昼を知る。かつての自分が、スマートフォンの通知や分刻みのスケジュール、そして「あと何キロ痩せなければ」という焦燥感に追い立てられていたことなど、今のフウカには想像もつかなかった。
彼女が今いるのは、アッシュが管理するジムの二階にある、小さな休息室だ。木の香りが漂うその部屋で、フウカはゆっくりと上体を起こした。
「……身体が、軽い」
それは単に体重が減ったという次元の話ではない。関節のひとつひとつに油が差されたような滑らかさがあり、呼吸をするたびに肺が大きく膨らむ。現実世界で階段から落ちる直前、あれほど彼女を苦しめていた、鉛のような倦怠感や手足の冷えは、どこにもなかった。
「おはよう、フウカ。顔色が良くなったね」
扉をノックして入ってきたアッシュの手には、湯気を立てる木製のカップが握られていた。彼はそれをフウカに手渡すと、自然な動作で枕元の椅子に腰を下ろした。
「ありがとうございます、アッシュさん」
カップを受け取る指先が、ほんの一瞬、彼の指に触れる。そのわずかな熱だけで、心臓の鼓動が不規則に跳ねるのをフウカは感じていた。
「……私、本当に何も思い出せないんです。自分の名前も、家族のことも、どうしてあんな場所で倒れていたのかも」
湯気を見つめながら、フウカは胸の内の不安を吐き出した。記憶の空白は、本来なら底なしの恐怖であるはずだ。自分が何者でもないという事実は、あまりにも心許ない。けれど、アッシュは動じることなく、深い湖のような瞳で彼女を見つめ返した。
「焦ることはないよ。記憶が戻るまで、あるいは君が新しい自分を見つけるまで、ここでゆっくりすればいい」
「……いいんですか? 何もできない私を、置いておいて」
「いいんだ。むしろ、今の君は“何もしない”というトレーニングが必要なんだから」
無理にしなくていい。思い出さなくていい。その言葉は、まるで乾いた砂に染み込む水のように、フウカの心を潤していった。かつての彼女───眞嶌颯華が、自分自身から得られなかった「無条件の許し」が、そこにはあった。
身体が安定するにつれ、フウカはジムの一角で、会員たちがトレーニングに励む様子を眺めて過ごすようになった。
ここは、グレンがいたような「剛」の筋肉を追求するジムとは少し趣が異なっていた。もちろん逞しい戦士のような男たちもいるが、それ以上に、しなやかな身のこなしを求める女性や、怪我からの復帰を目指す老兵が多い。
アッシュが指導するのは、主にピラティスやエキセントリック・トレーニング(筋肉を伸ばしながら負荷をかける運動)だ。
「吸って、背骨の間隔を広げるように……吐いて、おへそを背骨に近づけて。腹横筋の収縮を感じて」
アッシュの指示が飛ぶたび、ジムの中に調和の取れた呼吸の音が満ちていく。重い鉄塊を床に叩きつけるような荒々しい音ではなく、自分の身体と対話し、筋肉の深層部を探るような、静謐で力強い音。
「ここ、好きかも」
ベンチに座り、会員たちが汗を流す光景を見つめていたフウカが、ぽつりと呟いた。隣でタオルを畳んでいたアッシュが、少し意外そうに顔を上げる。
「音が、落ち着くんです。みんな、自分の命を丁寧に扱っている感じがして。必死に何かを削ろうとするんじゃなくて、積み上げている音がする」
アッシュは畳んでいた手を止め、フウカを見つめた。その眼差しには、隠しきれない愛おしさと、かすかな悲しみが混ざり合っているように見えた。
「……フウカらしい感想だね」
「私らしい? でも、私はまだ自分のことが分からないのに」
「今の君が感じたことが、そのまま君の“らしさ”だよ。記憶があろうとなかろうと、君の魂が選ぶ言葉に嘘はない」
アッシュの言葉は、いつもフウカが欲しかった場所に、そっと着地する。彼はフウカの「過去」を知っているのではないか。そんな疑念が頭をかすめるが、彼のあまりにも濁りのない笑顔を見ると、それを追求することは野暮な気がした。
アッシュは、フウカにも少しずつリハビリを兼ねた運動を勧めた。といっても、それは「ダイエット」とは程遠いものだった。
「今日は、足の裏の感覚を磨こう。足底筋膜が固まると、骨盤の傾きに影響が出るんだ」
彼が用意したのは、凹凸のある木の板や、柔らかな砂を入れた袋だった。その上を裸足で歩き、地面を捉える感覚を取り戻していく。
「あ……足の裏が温かい」
「神経が目を覚ました証拠だよ。次は床に座って。骨盤底筋を引き上げながら、ゆっくりと背骨を丸めていく。ロールダウンだ。一節ずつ、真珠のネックレスを置いていくようなイメージで」
アッシュの手が、フウカの背中にそっと添えられる。彼の掌から伝わる確かな熱。指先が背骨の位置を確かめるたび、フウカの全身に微弱な電流が走るような錯覚を覚えた。
「……気持ちいい。筋肉をいじめるんじゃなくて、喜ばせているみたい」
「それが本来の運動だよ。痩せるために身体を犠牲にするんじゃない。身体が本来の機能を獲得した結果として、余分なものが落ちていく。それを“整う”と呼ぶんだ」
整う。その響きに、フウカの胸の奥で既視感が弾けた。暗い部屋、青白い光を放つ小さな画面、そして───自分を励ましてくれた、実体のない声。
(誰かが、同じことを言ってくれていた気がする。でも、それは誰……?)
思い出そうとすると、脳の奥がズキリと痛む。それを見たアッシュは、すぐに彼女の肩に手を置き、動きを止めさせた。
「無理は禁物だ。今日はここまでにしよう。次は、一番大切なトレーニングだ」
「一番、大切……?」
「ああ。栄養の摂取だ」
ジムに併設された食堂で出されたのは、この土地の豊かな大地の恵みだった。香草を効かせた鶏肉のロースト、鉄分豊富な濃い緑の野菜、そして全粒粉のパン。
「こんなに、食べていいんですか?」
フウカの手が止まる。かつての習慣が――たとえ記憶はなくても、身体に染み付いた「拒食の恐怖」が、彼女のブレーキをかける。
「いいんだよ。たんぱく質は筋肉や内臓、そして心の安定を作るセロトニンの材料になる。脂質は細胞膜や女性ホルモンを作る。これらを抜くことは、自分という存在を少しずつ削っていくことと同じだ」
アッシュは、自分の皿からも肉を切り分け、フウカの皿に乗せた。
「“足りない”という飢餓状態が、一番心を不安定にさせる。しっかり食べて、しっかり休む。それが今の君にできる最高の努力だよ」
フウカは、震える手でフォークを取り、鶏肉を口に運んだ。噛み締めるたびに溢れる肉汁。滋味が全身に染み渡る感覚。気づけば、彼女の目から涙がこぼれ、皿の上に落ちた。
「……美味しい。私、食べていいんだ。生きてて、いいんだ」
何に対する赦しなのかは分からない。けれど、アッシュという存在に丸ごと肯定されている感覚が、彼女の心を芯から温めていた。
その夜、休息室の窓辺で星を眺めていたフウカのもとに、アッシュが夜風を連れてやってきた。
「不思議なんです」
フウカは振り返らずに言った。
「ここに来てから、焦らなくなった。何者かにならなきゃいけないとか、誰かに認められなきゃいけないとか……そういう重りが、外れたみたいで」
アッシュは彼女の隣に立ち、同じ夜空を見上げた。
「思い出しても、思い出さなくても……今は、どっちでもいい気がしています。ここにいる“私”が、アッシュさんの隣で呼吸をしている。それだけで、十分幸せだって思えるから」
アッシュは少しだけ目を伏せ、長い睫毛が影を作った。その横顔は、まるで完成された彫刻のように美しい。
「……君がそう思えるなら、それが正解だ」
彼の声は、どこか切なさを帯びていた。フウカは確信していた。この人は、自分の過去を知っている。自分がかつて、どれほどボロボロになって自分を嫌っていたかを知っていて、それでもあえて口にしないのだ。それは、今の自由な「フウカ」を、過去の呪縛に引き戻したくないという、祈りに似た優しさ。
「アッシュさん。私は、あなたと一緒に整っていきたい。この世界で、一歩ずつ」
フウカがそっと彼の服の袖を掴むと、アッシュはゆっくりと、彼女の小さな手を自分の大きな掌で包み込んだ。
「ああ。一緒に続けよう、フウカ。君が君自身を愛せるようになるまで、ずっと」
恋は、トレーニングと同じだ。急激な変化は身体を壊す。けれど、毎日少しずつ、呼吸を合わせるように積み重ねていけば、それは一生崩れない「芯」になる。星空の下、二人の距離が、ピラティスの完璧なアライメントのように、静かに、そして正しく重なった。




