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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第5章 失われた輪郭と、トレーナーの指導理論【減量編】

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03.空白の先


 アプリが消えた翌朝、颯華を襲ったのは、奈落に突き落とされたような喪失感だった。


 目覚ましのアラームは、無機質な電子音を鳴らし続けている。いつもなら、その音を聞くと同時にスマートフォンの画面を開き、アッシュの「おはよう」という声で一日を始めていた。彼のガイドに従い、ベッドの上で軽く足首の底屈・背屈運動アンクルパンピングを行い、末端の血流を促してから起き上がるのが習慣になっていたのだ。


 しかし、指が動かない。枕元のスマートフォンを手に取り、震える指で画面をスワイプする。


 ───やっぱり、ない。


 昨日までそこにあったはずの、筋肉を模した幾何学模様のアイコン。タップすればいつでも現れた、あの穏やかな青年。アッシュ・ナイトハルトという存在のすべてが、端末の基板から、そしてこの世界のネットワークから、完全に消去されていた。


「夢……だったの?」


 掠れた声で呟く。だが、シーツを蹴り上げた自分の脚は、一週間前よりも確実に軽やかだ。深層外旋六筋を意識した歩き方も、腹横筋で内臓を支える感覚も、身体がしっかりと覚えている。


 ───だからこそ、耐えられなかった。


「……戻らなきゃ。元の私に、戻っちゃいけない」


 それは恐怖に近い強迫観念だった。アッシュという支えを失った今、油断すればすぐに、和眞に「美意識がない」と切り捨てられた、あの醜い自分に引きずり戻される気がした。




 その日からの颯華は、何かに憑りつかれたようだった。会社では、仕事が手につかない。Excelのセルに並ぶ数字が、すべて自分の体重や摂取カロリーの計算式に見えてくる。同僚のランチの匂いが鼻につく。


「颯華、大丈夫? 顔色悪いよ」

「あ、うん……ちょっと寝不足なだけ。平気」


 嘘だ。昨夜も、アプリの残滓を探してネットの海を彷徨い、一睡もしていない。休憩時間、個室のトイレに駆け込み、必死にスマートフォンを操作する。


『インナーマッスルに届け! 消失』

『アッシュ・ナイトハルト 検索』


 出てくるのは、無関係な灰(Ash)のニュースや、同姓同名の別人ばかり。自分だけが、異次元に取り残されたような感覚。


(私が、頼りすぎたから……? 彼を、消費し尽くしてしまったの?)


 依存していた自覚はある。けれど、あれがなければ自分を保てない。アッシュの「無理をしないで」という声を脳内で再生しようとするが、焦燥感にかき消されてしまう。


「もっとやらなきゃ。アッシュがいないなら、私が私の教官にならなきゃ」


 颯華は、かつてアッシュが最も禁じていた「我慢と根性」のダイエットへと先祖返りしていった。




 一週間後。颯華の生活は、もはや「整える」ことからは程遠いものになっていた。アッシュが推奨していたヨガやピラティスの、ゆっくりとした動き。それは高い集中力と心の余裕を必要とする。今の颯華には、そんな贅沢な時間はなかった。


「動かなきゃ。汗をかかなきゃ。食べちゃダメだ」


 食事は、朝はブラックコーヒーのみ。昼はサラダチキンを少し。夜は水。


 アッシュは『燃料がなければ脂肪は燃えない』と言っていたが、今の彼女にとって食べ物は「罪」そのものだった。運動も、骨格の整列アライメントを無視した、過酷なものに変わった。フラフラになりながら夜道を走り、自室で悲鳴を上げる筋肉に鞭打って腹筋クランチを繰り返す。体重計の数字が100グラム減るたびに安堵し、変わらなければ自分の頬を叩いた。


 当然、身体は悲鳴を上げる。低血糖による激しい眩暈。鉄欠乏性貧血による立ちくらみ。階段を上るだけで、大腿四頭筋が鉛のように重く、心臓が口から飛び出しそうなほど脈打つ。


「……大丈夫。まだ、やれる」


 それは金曜日の夕暮れ時だった。誰もいないオフィスの非常階段。エレベーターを待つ時間さえ惜しみ、消費カロリーを稼ぐために階段を選んだ。手すりに掴まる指先に、力が入らない。視界の端に、チカチカと光る火花のようなものが散る。

 

(痩せなきゃ……。和眞に……あいつに……「見直した」って……)


 その時、ふっと、耳元で懐かしい声がした気がした。


『───そこまでだ、颯華』


「え……?」


 幻聴に振り向こうとした瞬間、膝の力が完全に抜けた。視界が、ぐにゃりと白く歪む。重力から解放されたような、奇妙な浮遊感。


「あ───」


 短い悲鳴すら上げられず、颯華の身体は重力に従い、暗い奈落へと吸い込まれていった。




 深い闇の底から、ゆっくりと意識が浮上してくる。最初に感じたのは、鳥の囀りと、窓から差し込む暴力的なまでに澄んだ光だった。


(……生きてる?)


 目を開ける。視界に飛び込んできたのは、無機質なオフィスの天井ではなく、太い梁が渡された温かみのある木の天井だった。


 体を動かそうとして、驚愕する。あんなに酷使していたはずの筋肉に、痛みがない。それどころか、肺の奥まで新鮮な空気が満ち、細胞の一つ一つが潤っているような、不思議な全能感。


「……ここ、どこ?」


 自分の声が、鈴のように澄んで響いた。


「───お。気がついたかい」


 聞き覚えのある、けれど、アプリのスピーカー越しとは違う「厚み」を持った生の声。颯華は弾かれたように視線を向けた。


 そこに立っていたのは、一人の青年だった。


 リネンの清潔なシャツを纏い、しなやかな体躯をゆったりと預けている。光を透かすアッシュブロンドの髪。知性と慈愛を湛えた、涼やかな目元。


「……っ」


 心臓が、痛いほどに脈打つ。名前を呼ぼうとして、言葉が喉でつかえた。


 ───知らない。


 この人が誰なのか、私は知らないはずだ。

 

 それなのに、なぜ、涙が出そうになるのか。なぜ、この人が手を差し伸べるだけで、世界が完成したような安心感を覚えるのか。


「無理に動かなくていいよ。君、かなりひどい状態で倒れていたからね」


 彼はベッドの傍らに腰を下ろし、慣れた手つきで颯華の脈を測った。その指先は温かく、適度な節度があった。


「ここは、僕が管理しているトレーニング・サンクチュアリ、療養ジムだ。街外れの階段下で倒れている君を見つけて、ここまで運んだんだよ」


 颯華は混乱する頭で、周囲を見渡した。見たこともない意匠のトレーニング器具。窓の外には、中世ヨーロッパを思わせる石造りの街並みと、見たこともないほど巨大な樹木。


「私……私は……」


 自分について話そうとして、颯華は愕然とした。自分がどこから来たのか。なぜあんなに必死に痩せようとしていたのか。自分の本当の名前すら、霧の向こうに隠れて思い出せない。


「……私、自分が誰なのか、わからない」


 絶望的な問いを口にした彼女に、青年は一瞬だけ、慈しむように目を細めた。その瞳の奥に、ほんの一瞬、再会を喜ぶような、あるいは深い覚悟を決めたような光が宿ったのを、颯華は見逃さなかった。


「そっか。……忘れてしまったんだね。辛いことを」


 彼は優しく微笑み、彼女の細くなった手をそっと包み込んだ。


「いいよ、今はそれで。……じゃあ、とりあえず、新しい名前が必要だね」


 彼は少し考える素振りをしてから、かつてアプリの画面越しに何度も呼んだ、その響きを口にした。


「───フウカ。そう呼んでもいいかな?」

「……フウカ」


 その名前が耳に届いた瞬間、胸の奥の、一番固く閉ざされていた鍵が「カチリ」と音を立てて外れた気がした。理由もなく、その響きが愛おしい。


「ええ……。嬉しいです。なんだか、ずっとそう呼ばれたかった気がして」

「良かった。……僕はアッシュ。アッシュ・ナイトハルト。この場所で、人々の身体と心を整える仕事をしている」


 ───アッシュ。


 その名を耳にした瞬間、颯華───フウカの頬を一筋の涙が伝った。記憶はない。理屈もわからない。けれど、魂が叫んでいる。


 ───会いたかった。

 ───ずっと、あなたを探していた。


「さあ、フウカ。今日からゆっくり、始めていこう」


 アッシュは立ち上がり、窓を大きく開け放った。異世界の輝かしい光が、新しい「フウカ」の物語を祝福するように降り注ぐ。


「まずは、今の自分を好きになるところからだ。大丈夫、僕が隣にいるから」


 失った記憶の空白を埋めるように。かつての呪縛から解き放たれた女性と、実体を得た教官の、二度目の物語がここから動き出す。

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