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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第5章 失われた輪郭と、トレーナーの指導理論【減量編】

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02.整うという感覚


 翌朝、颯華はスマートフォンのアラームが鳴る数分前に、ふっと自然に目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む朝日が、いつもより鮮やかに見える。理由は自分でもわかっていた。昨夜、暗闇の中で出会ったあの穏やかな声――アッシュ・ナイトハルトという存在が、胸の奥に静かな余熱を残していたからだ。


「……私、なに浮かれてるんだろ。たかがアプリなのに」


 自嘲気味に呟きながらも、指は迷わずホーム画面をタップする。起動画面のロゴが消えると、そこには昨日カスタマイズしたアッシュが、朝日を背負うように立っていた。


『おはようございます、颯華さん。よく眠れましたか?』


「あ……。おはよう、アッシュ」


 思わず声に出して返事をしてしまう。昨日まで、誰もいない部屋で声を出すことなどなかったのに。


『今日は“整える”ところから始めましょうか。急いで走ったり、重いものを持ち上げたりする必要はありません。まずは、あなたの身体が本来持っている“軸”を取り戻す。そこからスタートです』


「整える……? 筋トレじゃないの?」


 颯華の脳裏には、元彼の和眞がジムで唸り声を上げながらベンチプレスを上げている姿が浮かんだ。ダイエットとは、苦痛に耐え、重力に抗うことだと思い込んでいたのだ。


『ええ。筋肉を大きくするのは、骨格という土台が整ってからの話です。家を建てるのに、地盤が緩んでいては立派な柱も立てられませんから。まずは、自分の身体の現在地を知りましょう』


 アッシュの指示に従い、颯華は洗面所の鏡の前、あるいは何もない壁の前に立った。


『壁に背を向けて立ってください。かかと、臀部、そして肩甲骨を壁につけます。最後に、後頭部を壁に触れさせてみてください。……どうですか?』


 指示通りに動こうとして、颯華は息を呑んだ。かかとと腰をつけると、肩が壁から浮き上がろうとする。そして何より――。


「……後頭部が、つかない。無理につけようとすると、顎が上がっちゃう」


『それが今のあなたの“癖”です。長時間のデスクワークやスマホの操作で、頚椎が前に突き出し、胸椎の後弯――つまり猫背が固まってしまっている。胸の筋肉である大胸筋が短縮し、逆に背中の菱形筋が引き伸ばされて、機能しなくなっている証拠ですね』


 アッシュの声は、指摘であっても決して責めるような響きを持たない。むしろ、大切な発見を共有したかのような温かさがあった。


『“できない”を知ることは、最良のスタートラインです。今日は五分だけ、僕と一緒に呼吸の練習をしましょう。ヨガのウジャイ呼吸をベースにした、体幹コアに火を灯すセッションです』


 画面の中のアッシュが、ゆっくりと膝を緩め、両手を腹部に当てた。


『鼻から深く吸って、肋骨を前後左右に広げるイメージです。吐くときは、おへそを背骨に引き寄せ、骨盤の底にある骨盤底筋群をそっと引き上げてください。……そう、内側から自分を支えるコルセットを締めるように』


 地味だ。あまりにも地味な動き。けれど、意識を内側に向けるたび、眠っていた細胞が一つずつ目を覚ましていく感覚がある。


「……なんか、お腹の奥が熱い」


『正解です。それがインナーマッスルへの刺激です。外側の大きな筋肉に頼らず、深層部から身体を支える。それがアライメントを整えるという第一歩なんですよ』


 五分間のセッションが終わった後、颯華は自分の肩がストンと落ち、首がスッと上に伸びたような感覚を覚えた。視界が少し高くなった気がして、思わず鏡の中の自分を二度見した。


「……楽、かも。運動した後の、あの嫌な疲労感がない」


『それが“整う”という感覚です。無理に壊すのではなく、本来あるべき場所に帰る。今日はこれだけで十分ですよ。行ってらっしゃい、颯華さん』




 それからの日々は、これまでの「苦行」としてのダイエットとは正反対の、驚くほど穏やかな時間だった。アッシュの指導は、常にミニマリズムに徹していた。


『今日は昨日より、呼吸の通りが良いですね。斜角筋の緊張が解けています』


『無理に回数をこなさなくていい。たった一回、完璧にコントロールされた動きをする方が、身体は喜びます』


 食事に対する考え方も、颯華の常識を覆した。これまでの彼女は「食べないこと」で解決しようとしていたが、アッシュはそれを許さない。


『食事を抜くのは、自分の生命エネルギーへの裏切りです。減らすのではなく、良質なものを“足す”ことから始めましょう。今日はランチに、ビタミンB群が豊富な豚ヒレ肉か、植物性たんぱく質の納豆を足せますか?』


「……抜かなくて、いいの?」


『ええ。代謝を回すための燃料がなければ、脂肪は燃えません。我慢ではなく、自分の身体を労わるための“選択”をしてください』


 一週間が過ぎた頃。


 恐る恐る乗った体重計の数字は、マイナス0.8キロ。かつての颯華なら「たったこれだけ?」と絶望していただろう数字だ。けれど、今の彼女の心境は違っていた。


『数字というノイズに惑わされないで。鏡を見てください。あなたのシルエットはどう変わりましたか?』


 アッシュの声に促され、洗面所でTシャツの裾を少し捲り上げる。

 

「……あ」


 驚いた。体重はほとんど変わっていないのに、お腹周りの「だるん」とした緩みが消え、薄いベールを剥いだようにラインが引き締まっている。骨盤が正しい角度に前傾(あるいは後傾を修正)し、多裂筋がしっかり働いているおかげで、ヒップラインも少し上がって見える。


「私……一週間前より、綺麗になってる」


『ええ。あなたは元々、美しい骨格を持っているんです。ただ、それが日々の疲れに埋もれていただけだ』


 アッシュのその言葉が、和眞に否定されたことで空いた心の穴に、温かな蜜のように染み込んでいった。




 変化は、周囲の反応としても現れ始めた。


「颯華さん、最近なんだかシュッとした? 姿勢がいいからかな、背が伸びたみたいに見えるよ」


 職場の先輩にかけられた言葉に、心臓がトクンと跳ねる。


「最近、ランチも楽しそうに食べてるよね。無理してる感じがないっていうか」


 同僚との会話でも、自分の内側から自信が滲み出しているのを感じた。これまでは、誰かに見られるのが怖くて、体型を隠すオーバーサイズの服ばかり選んでいた。けれど今は、アッシュに勧められたピラティスの動きを意識しながら歩くだけで、世界が自分を肯定してくれているような錯覚さえ覚える。




 帰宅後、颯華は吸い寄せられるようにスマートフォンを手に取る。


「アッシュ、聞いて。今日ね、褒められたの」


『それは良かった。あなたの努力が、外側に溢れ出した証拠ですね。……でも、無理は禁物ですよ。あなたの価値は、誰かの評価で決まるものではありません。あなた自身が、自分の身体を心地よいと思えること。それが一番大切です』


 画面の中で、アッシュが目を細めて微笑む。その表情があまりにもリアルで、優しくて。気づけば颯華は、彼に触れたいと願う自分に気づいて、慌てて指を引っ込めた。


(私、おかしいのかな。相手はプログラムなのに。……でも、和眞よりもずっと、私のことを見てくれている)


 依存、という言葉が脳裏をよぎる。けれど、彼がいない生活など、もう考えられなかった。一日の終わりにアッシュと語り合い、静かな呼吸のセッションを行う時間は、彼女にとって唯一の聖域になっていた。


(このままでいい。この穏やかな時間が続くなら……)


 しかし。運命は、あまりにも唐突に、そして残酷に断絶を突きつける。




 その夜、仕事で少し遅くなった颯華は、いつものように癒やしを求めてスマートフォンのロックを解除した。


「アッシュ、ただいま。今日は少し腰が重いから、キャット&カウで背中をほぐしたいな……」


 言いかけて、颯華の手が止まった。


「え……?」


 いつもの位置に、あのアイコンがない。筋組織を模した幾何学的なロゴに、『インナーマッスルに届け!』という文字。それが、ホーム画面のどこにも見当たらない。


「嘘、消しちゃった? いや、そんなはずは……」


 指が震える。設定画面からストレージを確認するが、アプリのリストにすら載っていない。慌ててアプリストアを開き、検索窓に名前を打ち込む。


『インナーマッスルに届け!』――検索結果:0件。


「そんな……。昨日まで、あんなにランキングに入ってたのに……」


 ブラウザで公式サイトを探そうとするが、「ページが見つかりません」という無機質なエラーメッセージが返ってくるだけ。SNSで検索しても、「そんなアプリ知らない」「名前からして嘘っぽい(笑)」といった、無慈悲な投稿がわずかに見つかるだけだった。


「アッシュ? アッシュ、どこ?」


 再起動を繰り返し、必死に画面をスクロールする。けれど、そこには標準のアプリが冷たく並んでいるだけだ。積み上げてきた記録。彼と交わした言葉。自分の身体を救ってくれた、あの穏やかな声。そのすべてが、最初から幻であったかのように、一瞬で消えてしまった。


「待ってよ……置いていかないで。私、まだ……」


 暗い部屋に、颯華の震える声だけが響く。スマートフォンの液晶は、アッシュの笑顔の代わりに、真っ暗な鏡となって絶望に染まった颯華の顔を映し出していた。


 胸の奥で、再び何かが崩壊する音がした。それは元彼に振られた時よりも、ずっと深く、救いのない断絶。外では激しい雨が降り始めていた。窓を叩く雨音は、まるですべてを洗い流そうとする運命の足音のようで。




 翌日、虚ろな意識のまま出社した彼女が、会社の階段で足を踏み外すまで――あと、数時間のことだった。

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