表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第1章 鉄の規律と乙女の腹圧【覚醒編】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/31

03.白い光の中であなたを想う

 その日から、夏夢は「送らない」という選択肢を持たなくなった。朝、目を開けた瞬間に考えるのは、献立だ。タンパク質量を算出し、脂質を削ぎ、塩分を控える。


 写真を撮り、送信し、「確認した」というグレンの声を聴く。その一連の儀式が、砂漠のような彼女の日常を潤す唯一の聖水だった。


「健康管理?」

「まぁ、そんなところです」


 昼食の写真を撮っていると、職場で同僚に訊かれ、夏夢はへにゃりと曖昧に笑う。


(違う。私は、彼に「視られる」ために、この身体を捧げているだけ)


 そんな狂信的な言葉は、口が裂けても言えなかった。夜のトレーニングは、もはや魂の対話だった。画面の中のグレンは、相変わらず無駄がない。彼が腕を上げれば三角筋が盛り上がり、身体を捻れば腹斜筋が鋭く走る。


「力の入れ方が変わった。無駄が減った」


 その一言だけで、夏夢は救われた。仕事の理不尽も、孤独な夜も、すべてが「筋肉の糧」として昇華されていった。




 運命の夜は、激しい雨だった。連日の残業で疲弊した夏夢は、街灯の光が滲むアスファルトを歩いていた。スマホの通知が震える。


『夕食データの送信を推奨』


 自動通知だと分かっていても、胸が温かくなる。


「帰ったらちゃんと送るからね、グレン……」


 横断歩道に一歩、踏み出した瞬間だった。視界を、暴力的な白い光が塗りつぶした。激しいタイヤの摩擦音。叫び声。


(あ――)


 死を予感したその刹那。脳裏に響いたのは、いつもの、あの厳格な声だった。


『姿勢を保て。腹圧を抜けさせるな!』


 無意識だった。夏夢は衝撃に備え、教わった通りに体幹を締め、顎を引き、身体を丸めた。


 次の瞬間、強烈な衝撃が横から襲い、世界がひっくり返った。宙を舞う身体。遠のく雨音。薄れゆく意識の中で、夏夢は思った。


(……朝も、昼も、ちゃんと送ったよ……。夜のデータ、送れなくて……ごめん……ね……)


「……を保て」


 耳の奥で、最後に聞こえたのは、アプリの合成音声ではない、深く、焦燥に満ちた、本物の「男」の声だった。




 白い光は、すぐには消えなかった。痛みも重さもない世界。けれど、誰かの声がする。


「……呼吸は安定している。筋反応も正常だ」

「よかったぁ。あんなところで倒れてるんだもの、びっくりしたわよ」


 耳慣れない、けれど心地よい声。夏夢はゆっくりと瞼を持ち上げた。


 高い天井が見える。そこは病院ではなかった。石造りの壮麗なドーム。壁には見たこともないほど巨大なダンベルや、筋肉の解剖図が芸術品のように飾られている。


「……ここ……は?」


 自分の声を出して、夏夢は驚いた。声が軽い。そして、身体に力が漲っている。起き上がろうと床に手をついた瞬間、指先から前腕、そして上腕三頭筋へと力が流れる感覚が、驚くほど鮮明に「見えた」。


「目、覚めた?」


 横にいたのは、燃えるような赤い髪をポニーテールにした女性――アイナだった。しなやかな筋肉を躍動させ、彼女は屈託なく笑う。


「いきなり中庭で倒れてるから死んじゃったかと思った。ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーへようこそ、新人さん」

「新人……?  私は、鬼頭夏夢で……」


 そこまで言って、夏夢は自分の名前に違和感を覚えた。頭の片隅に、別の名前が書き込まれている。


『ナツメ・キトウ。新人トレーナー。21歳』


「ナツメ」


 不意に、背後から響いたその声に、夏夢の全身の毛穴が収縮した。ゆっくりと、機械仕掛けのように振り返る。


 ───そこに、彼はいた。




 身長190cm近い、圧倒的な巨躯。銀灰色の髪に、氷のように鋭い、けれど深い情を湛えた瞳。


 タンクトップから覗く大胸筋は、まるで分厚い鉄板のようだ。そして、腕を組んだ瞬間に盛り上がる前腕の血管は、夏夢がアプリで何度もなぞった、あの「理想」そのものだった。


「グ……レン……?」


 呼びかけると、男はわずかに眉根を寄せた。


「私の名はグレン・シルフィード。今日からお前の指導を担当する」


 一歩、彼が近づく。スマホの画面越しには決して届かなかった、熱い体温。


 鋼のような筋肉が放つ、特有の威圧感。それは、夏夢が愛したAIキャラクターではなく、この世界で呼吸し、生きている「英雄」の姿だった。


「お前は、今日から私の管理下に入る。甘ったれた身体と根性を、一から叩き直してやる」


 グレンの視線が、ナツメ(夏夢)の身体をなぞる。その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、激しい揺らぎが走ったのをナツメは見逃さなかった……。果たして彼は気付いたのか?


「……はい、先輩!」


 ナツメは叫んだ。不慮の事故ではあったが、執着の果てに辿り着いた、筋肉の聖域。ここにはもう、画面の壁はない。推し教官と一対一のしごきの日々が、今、幕を開けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ