03.白い光の中であなたを想う
その日から、夏夢は「送らない」という選択肢を持たなくなった。朝、目を開けた瞬間に考えるのは、献立だ。タンパク質量を算出し、脂質を削ぎ、塩分を控える。
写真を撮り、送信し、「確認した」というグレンの声を聴く。その一連の儀式が、砂漠のような彼女の日常を潤す唯一の聖水だった。
「健康管理?」
「まぁ、そんなところです」
昼食の写真を撮っていると、職場で同僚に訊かれ、夏夢はへにゃりと曖昧に笑う。
(違う。私は、彼に「視られる」ために、この身体を捧げているだけ)
そんな狂信的な言葉は、口が裂けても言えなかった。夜のトレーニングは、もはや魂の対話だった。画面の中のグレンは、相変わらず無駄がない。彼が腕を上げれば三角筋が盛り上がり、身体を捻れば腹斜筋が鋭く走る。
「力の入れ方が変わった。無駄が減った」
その一言だけで、夏夢は救われた。仕事の理不尽も、孤独な夜も、すべてが「筋肉の糧」として昇華されていった。
運命の夜は、激しい雨だった。連日の残業で疲弊した夏夢は、街灯の光が滲むアスファルトを歩いていた。スマホの通知が震える。
『夕食データの送信を推奨』
自動通知だと分かっていても、胸が温かくなる。
「帰ったらちゃんと送るからね、グレン……」
横断歩道に一歩、踏み出した瞬間だった。視界を、暴力的な白い光が塗りつぶした。激しいタイヤの摩擦音。叫び声。
(あ――)
死を予感したその刹那。脳裏に響いたのは、いつもの、あの厳格な声だった。
『姿勢を保て。腹圧を抜けさせるな!』
無意識だった。夏夢は衝撃に備え、教わった通りに体幹を締め、顎を引き、身体を丸めた。
次の瞬間、強烈な衝撃が横から襲い、世界がひっくり返った。宙を舞う身体。遠のく雨音。薄れゆく意識の中で、夏夢は思った。
(……朝も、昼も、ちゃんと送ったよ……。夜のデータ、送れなくて……ごめん……ね……)
「……を保て」
耳の奥で、最後に聞こえたのは、アプリの合成音声ではない、深く、焦燥に満ちた、本物の「男」の声だった。
白い光は、すぐには消えなかった。痛みも重さもない世界。けれど、誰かの声がする。
「……呼吸は安定している。筋反応も正常だ」
「よかったぁ。あんなところで倒れてるんだもの、びっくりしたわよ」
耳慣れない、けれど心地よい声。夏夢はゆっくりと瞼を持ち上げた。
高い天井が見える。そこは病院ではなかった。石造りの壮麗なドーム。壁には見たこともないほど巨大なダンベルや、筋肉の解剖図が芸術品のように飾られている。
「……ここ……は?」
自分の声を出して、夏夢は驚いた。声が軽い。そして、身体に力が漲っている。起き上がろうと床に手をついた瞬間、指先から前腕、そして上腕三頭筋へと力が流れる感覚が、驚くほど鮮明に「見えた」。
「目、覚めた?」
横にいたのは、燃えるような赤い髪をポニーテールにした女性――アイナだった。しなやかな筋肉を躍動させ、彼女は屈託なく笑う。
「いきなり中庭で倒れてるから死んじゃったかと思った。ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーへようこそ、新人さん」
「新人……? 私は、鬼頭夏夢で……」
そこまで言って、夏夢は自分の名前に違和感を覚えた。頭の片隅に、別の名前が書き込まれている。
『ナツメ・キトウ。新人トレーナー。21歳』
「ナツメ」
不意に、背後から響いたその声に、夏夢の全身の毛穴が収縮した。ゆっくりと、機械仕掛けのように振り返る。
───そこに、彼はいた。
身長190cm近い、圧倒的な巨躯。銀灰色の髪に、氷のように鋭い、けれど深い情を湛えた瞳。
タンクトップから覗く大胸筋は、まるで分厚い鉄板のようだ。そして、腕を組んだ瞬間に盛り上がる前腕の血管は、夏夢がアプリで何度もなぞった、あの「理想」そのものだった。
「グ……レン……?」
呼びかけると、男はわずかに眉根を寄せた。
「私の名はグレン・シルフィード。今日からお前の指導を担当する」
一歩、彼が近づく。スマホの画面越しには決して届かなかった、熱い体温。
鋼のような筋肉が放つ、特有の威圧感。それは、夏夢が愛したAIキャラクターではなく、この世界で呼吸し、生きている「英雄」の姿だった。
「お前は、今日から私の管理下に入る。甘ったれた身体と根性を、一から叩き直してやる」
グレンの視線が、ナツメ(夏夢)の身体をなぞる。その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、激しい揺らぎが走ったのをナツメは見逃さなかった……。果たして彼は気付いたのか?
「……はい、先輩!」
ナツメは叫んだ。不慮の事故ではあったが、執着の果てに辿り着いた、筋肉の聖域。ここにはもう、画面の壁はない。推し教官と一対一のしごきの日々が、今、幕を開けた。




