01.痩せたい理由
別れ話は、拍子抜けするほど穏やかだった。日曜日の午後、西日の差し込む駅前のカフェ。窓の外では、幸せそうなカップルや家族連れが、春の柔らかな日差しの中を通り過ぎていく。そんな光景をガラス越しに眺めながら、眞嶌颯華は、目の前で冷めていくカフェラテを見つめていた。
「颯華のことは、今でも嫌いじゃないんだ。ただ……」
向かいに座る榊木和眞は、テーブルに置いた自分のブラックコーヒーを一度も口に運ばないまま、言葉を選ぶように視線を泳がせた。その仕草すら、三年間共に歩んできたはずの颯華には、どこか遠い国の儀式のように映る。
和眞は、週に三回ジムに通うのを欠かさない。今日もシャツの上からでも分かるほど、その大胸筋は厚く、僧帽筋から肩先にかけてのラインは逞しく盛り上がっている。かつてはそのガッシリとした体躯に守られているような安心感を覚えていたが、今の颯華には、その筋量の豊かさが自分を裁く「正しさ」の象徴のように見えて、息苦しかった。
「正直に言うよ。付き合い始めた頃より、美意識がなくなった気がする。なんていうか、異性として……見られなくなったんだ」
胸の奥で、乾いた陶器が粉々に砕け散るような音がした。怒りも、悲しみも、すぐには湧いてこなかった。ただ、ひどく静かで冷たい衝撃が、指先からゆっくりと全身を満たしていく。
「……そっか」
颯華は、自分の声が震えなかったことに、ほんの少しの安堵を覚えた。心臓は早鐘を打っているのに、意識だけが冷徹に状況を俯瞰している。和眞は、逃げるように続けた。
「最初はさ、仕事も頑張ってて、ちゃんと自分の体のことも気にしてて……それが良かったんだ。でも最近は――」
言葉はそこで途切れたが、言いたいことは痛いほど理解できた。
この半年、プロジェクトの繁忙期を言い訳に、夕食はコンビニのパスタやホットスナックで済ませていた。深夜まで残業し、帰宅すればメイクも落とさずに眠る日もあった。週末は泥のように眠り、鏡を見る時間があるなら一分でも長く横になりたいと思っていた。
和眞の視線が、一瞬だけ動いた。それは颯華の瞳ではなく、浮腫んで重たくなった頬のライン、そしてテーブルの下で隠しきれない腹部の緩みへと、鋭く落とされた。その、わずか零コンマ数秒の視線の移動が、すべてだった。
「ごめん。これ以上一緒にいても、お互いにとって良くないと思う」
彼はそう言って立ち上がり、伝票を手に取った。スマートな動作で会計を済ませると、振り返ることなく店を出て行った。自動ドアが開くたびに流れ込む外の喧騒が、取り残された颯華の孤独をより一層際立たせる。目の前のラテは、もう完全に冷え切り、表面に薄い膜を張っていた。
帰宅し、玄関のドアを閉めた瞬間、颯華は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。フローリングの冷たさが、タイツ越しに膝に伝わる。
「……美意識、ない、か」
誰もいないワンルーム。脱ぎ捨てられたパンプスが、情けない角度で転がっている。
――異性として見られない。
その言葉が、遅れて毒のように全身を回り始めた。かつては「そのままでも可愛いよ」と言ってくれたはずの口から出た、最後通牒。
立ち上がり、重い足取りで洗面所へ向かう。三面鏡のライトを最大まで点け、自分の姿を凝視した。
「……醜い」
こぼれ落ちたのは、自分への呪詛だった。
三年前の自分と比べ、顎のラインは広頚筋が緩んだせいか曖昧になり、二重顎の兆候が見える。猫背気味の姿勢のせいで大胸筋が縮こまり、肩が内側に巻き込んでいる。そのせいで、デコルテは貧相なのに、二の腕だけは重力に従って弛んでいた。
腹部を触ってみる。皮下脂肪の下にあるはずの腹直筋は眠り込み、ただ柔らかく、掴める肉だけがそこにあった。
「私、こんなだったっけ……。もっと、自分をコントロールできていたはずなのに」
記憶の中の自分は、もう少し軽やかだった。五センチのヒールを履いて都心のビル群を颯爽と歩き、金曜日の夜には新しいリップを選ぶ時間を愛していたはずだ。今の自分は、仕事に摩耗され、自分を愛することを放棄した「抜け殻」だった。
震える指でスマートフォンを手に取る。アプリストアの検索窓に、叩きつけるように文字を入力した。
『痩せたい』
『ダイエット 即効性』
『脂肪燃焼 トレーニング』
画面を埋め尽くす、刺激的な煽り文句の数々。「一週間でマイナス5キロ」「飲んで寝るだけ」。普段なら怪しいと切り捨てる言葉が、今のボロボロの心には救いのように見えてしまう。だが、その濁流のような広告の中で、一つのアイコンに目が止まった。
――『インナーマッスルに届け!』
「……なに、この名前」
思わず自嘲気味に呟いた。キラキラとしたダイエットアプリが並ぶ中で、その名前はどこか武骨で、かつ論理的な響きを持っていた。
【数値を変える前に、身体の構造を整えませんか?】
【大切なのは、外側の肉を削ることではなく、内側の支柱を鍛えること】
レビューを開くと、他のアプリとは毛色が違っていた。
「体重は劇的には減りませんが、階段が楽になりました」
「姿勢が良くなり、周りから『痩せた?』と聞かれるようになりました」
派手な宣伝文句はない。ただ、静かにユーザーの生活を支えているような、誠実な言葉たちが並んでいた。
「……今の私には、こういうのが合ってるのかも」
ダウンロードを開始する。プログレスバーが伸びていく数秒間、颯華は祈るような気持ちで画面を見つめていた。何かが変わってほしい。この惨めな現実から、一歩でも外へ踏み出したい。
アプリが起動すると、最初に現れたのは「パーソナルトレーナー作成」という画面だった。
【あなたを支え、導くパートナーをカスタマイズしてください】
画面中央に、デフォルト設定のキャラクターが表示される。
――身長185センチ。
逆三角形の逞しい体躯。シャツが弾けそうなほど発達した大胸筋と、丸木のような上腕三頭筋。彫りの深い、無骨で真面目そうな顔立ち。
「っ……」
颯華の呼吸が止まる。画面の中の彼は、あまりにも「榊木和眞」に似ていた。
筋肥大を至高とし、バルクアップに心血を注ぐ、強くて正しい男。彼のような存在は、今の颯華にとっては「励まし」ではなく「断罪」でしかなかった。「なぜお前は俺のようにできないのか」と、その筋肉が雄弁に語りかけてくるような気がして、吐き気がした。
「……違う。これじゃない。私は、こういう『強さ』に救われたいんじゃない」
指が、拒絶するようにカスタマイズ画面を叩いた。
まず、過剰な筋量を削ぎ落とす。隆起した大胸筋を、平滑でしなやかなラインへ。丸太のような腕を、関節の動きが滑らかに伝わるような、適度な細さへ。全体のシルエットを「剛」から「柔」へと変換していく。それは、現実の元彼を自分の心から削り取る作業にも似ていた。
顔立ちも細かく調整する。厳格そうな眉を、少し下げ、穏やかな形に。威圧的な瞳を、知性と優しさを湛えた、涼やかな目元へ。髪の色は、重たい黒ではなく、光を透過させるような柔らかなアッシュブロンドを選んだ。
完成したのは、和眞とは対極に位置する、一人の青年だった。細身に見えるが、その立ち姿からは体幹の強固さが伝わってくる。無駄な力みが一切なく、ただそこに立っているだけで周囲の空気が清浄になるような、そんな佇まい。
「……これなら、怖くない」
最後に、名前入力欄が表示される。颯華は、彼にふさわしい響きを考え、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
――アッシュ・ナイトハルト。
決定ボタンを押すと、画面が淡い光を放ち、アッシュがこちらに向かって一歩、歩み寄ってきた。彼は画面越しに、強要することのない、透き通った微笑みを浮かべる。
『はじめまして、颯華さん。今日から僕が、あなたのガイドを務めます』
スピーカーから流れてきたのは、落ち着いた、けれどどこか温かみのある低音だった。
『まずは、深呼吸から始めましょうか。焦る必要はありません。体重計に乗る前に、今のあなたの身体が何を求めているか、一緒に探していきましょう』
その声を聞いた瞬間、颯華の瞳から、ずっと我慢していた涙が溢れ出した。
「……痩せたいだけ。痩せて、見返してやりたいだけなのに」
膝を抱え、スマートフォンの青白い光の中で泣き続ける颯華。アッシュは何も言わず、ただ画面の中で、彼女が泣き止むのを待つように静かに微笑み続けていた。
この夜、彼女が選んだ「アッシュ」という存在が、単なるデータの塊ではなく、やがて彼女の魂を別世界へと導くことになるなど、この時の颯華には――そして、去っていった和眞にも、知る由はなかった。




