27.白銀の祈り
昼のジムは、いつもと変わらない。重厚な石造りの壁、松明の熱。空気に混じる鉄の匂いと、床を打つ汗の滴。会員たちが吐き出す荒い呼吸は、一定のリズムを刻みながらフロアを支配している。
「はい、そこまで。……追い込みが甘い。体幹が逃げているぞ!」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹に響く。指示は正確に。視線は鋭利に。それが「鉄の教官」と呼ばれた俺の、このアカデミーにおける唯一の存在理由だ。そうでなければならない。ここは鍛錬の場であり、私情などという柔な感情を、一欠片たりとも持ち込んではならない神域なのだから。
「グレン先生、今日は一段と厳しいですね。新入りの連中が震えてますよ」
古参の会員が、セットの合間に軽口を叩いてくる。
「……今日も、だ。……三秒以内に次のセットに入れ。止まるな」
笑いが起こる。それでいい。誰もが、グレン・シルフィードは「いつも通り」の鋼の怪物だと思っている。だが、セットが終わるたび、俺は無意識に壁の時計を見上げていた。
(早く───夜になれ。この喧騒が消え、お前の隣に戻れる時間になれ)
胸の奥で燻るこの飢餓感を、俺は「厳格さ」という仮面で隠し通していた。
医務室の重厚な扉を開けるとき、俺の「仮面」は音を立てて崩れ落ちる。そこだけは、世界の理が違うかのように静まり返っていた。漂う薬草の匂い。規則正しく刻まれる魔導計の音。そして───眠り続ける、一人の女。
「……今日も、変わりないな、ナツメ」
返事はない。それでも俺は、彼女に聞こえるように声をかける。椅子に腰を下ろし、そっと彼女の手を取る。ダンベルを握り、バーベルを支えてきたはずの手は、一ヶ月の空白を経て、驚くほど細く、脆くなっていた。それでも、指先からは確かな熱が伝わってくる。
(呼吸……よし。脈……安定している)
胸の上下を確認し、手首に指を当てて拍動を数える。その微かなリズムだけが、俺を現実に繋ぎ止めていた。もし、この鼓動が止まってしまったら───その想像に襲われるたび、俺の背筋には氷のような汗が流れる。この一瞬の「生」の確認のために、俺は今日一日、地獄のような静寂を耐えてきた。
夜は、彼女の傍を離れない。ベッドの脇の椅子に凭れ、浅い眠りを繰り返す。夢は見ない。見る余裕などないのだ。ただ一時間に一度、あるいはそれ以上の頻度で目を覚ますたびに、俺は真っ先にお前の胸に耳を当てる。
「生きろ」と。
「俺を置いていくな」と。
祈りなどという高潔なものではない。それは、自分の一部を失うことを恐れる、醜いまでの執着だった。
「……グレン、顔色が最悪だよ」
ある日、医務室にアイナがやってきた。彼女の普段の明るさは鳴りを潜め、眠るナツメを悲しげに覗き込んでいる。
「……業務に支障はない」
「嘘ばっかり。グレンがナツメのこと、どれだけ想ってるか……もう、隠せてないよ」
その言葉に、俺は反論できなかった。アイナは俺を見上げ、いつになく真剣な表情で告げた。
「会員さんたち、みんな気づいてる。グレンが、ナツメを失うのをどれだけ恐れてるか。……そして、このアカデミーに足りないものが何かってこともね」
その意味を問い返す前に、事態は動き始めていた。
「先生、お願いがあります」
「恋愛禁止区域を、撤廃してください」
翌日から、俺の元ではなく、老トレーナー───アカデミーの創始者の元へ、会員たちが次々と足を運ぶようになった。彼らは皆、鍛え抜かれた肉体と、それに恥じない真っ直ぐな意志を持った者たちだ。
「ナツメ先生が戻ってきたとき、二人が正々堂々と隣にいられる場所であってほしいんです」
「信頼と、尊敬、そして愛……。それがなければ、私たちは何のために強くならなきゃいけないんですか?」
それは、俺が教官として彼らに教えてきた「魂の強さ」の、一つの答えだった。俺が臆病に守り続けてきた古い規則を、俺の教え子たちが壊そうとしている。
「グレン、入れ」
ある静かな夜、老トレーナーに呼び出された。彼は長い沈黙の後、深く溜息を吐き、壁に掛けられた古びた規律書を見つめた。
「恋愛禁止区域は、今この瞬間を以て撤廃する。……お前たちの絆が、これほどまでに皆を動かした。もはや規則で縛るなど、強さを追求する場としてナンセンスだ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……本当、ですか」
「条件はある。……ナツメが戻ってきたら、二度とその手を離すな。教官としてではなく、一人の男として、彼女を幸せにしろ」
「……っ、はい……!!」
俺は返事をするが早いか、医務室へと走った。肺が焼け、筋肉が悲鳴を上げるほどの疾走。これほどまでに心拍数が上がったのは、人生で初めてだった。
医務室に飛び込み、眠るナツメの傍らに膝をつく。俺は彼女の冷えた手を、壊れんばかりの力で握りしめた。
「ナツメ、聞いてくれ! 自由だ……もう、隠れる必要も、偽る必要もない! 恋愛禁止区域は消えた。……あとは、お前が戻ってくるだけだ!」
声が、喉の奥で震える。抑えてきた感情が、ダムが決壊するように溢れ出した。一ヶ月。この一ヶ月の間、あちらの世界にお前を連れ去ろうとする「何か」と、俺は一人で戦い続けてきた。
「戻ってこい、ナツメ!! 俺のそばに、俺の腕の中に、今すぐ戻ってこい!!」
それは教官としての命令ではなく、魂の最下層から絞り出した、一人の男の悲鳴だった。世界を裂き、次元の壁を叩き割るほどの、白銀の祈り。
その時、握りしめていた指が、僅かにピクリと動いた。
「……っ!」
俺は息を止めた。ナツメの瞼が微かに震え、重い扉を開くように、ゆっくりとその瞳が開かれる。焦点の合わない、けれど確かに俺を求めている、あの琥珀色の瞳。
「……ぐ、れん……?」
俺は思考するより早く、彼女の華奢な身体を抱きしめていた。折れてしまいそうなほど細い。だが、確かにそこにある。
「……遅い。……心配、させるな」
「……ごめんなさい……」
掠れた声で謝る彼女に、俺は首を振った。
「いい。戻ってきてくれた……。それだけでいい」
俺は彼女をベッドから引き寄せるように抱き上げ、額を合わせた。あちらの世界で何をしていたのか、どんな迷いがあったのか、今はどうでもよかった。ただ、俺の呼びかけに応え、地獄から戻ってきたこの女を、二度と離さない。
「ナツメ。……いや、私のナツメ」
俺は彼女の頬に手を添え、深い熱を帯びた視線で射抜いた。
「恋愛禁止区域は、もうない。……ここからは、一人の男として、お前を愛する」
「……はい、グレンさん」
彼女の潤んだ瞳が、俺を映し出している。俺は吸い寄せられるように、彼女の唇を奪った。それは、病室の静寂を切り裂くような、深く、烈火のような熱を持った口づけ。
一ヶ月の祈り、一ヶ月の絶望、そして一ヶ月の空白が、この一瞬の「結合」によって完全に埋め尽くされていく。唇から伝わる彼女の鼓動。肺に流れ込む、彼女の甘い呼吸。
「……愛している。筋肉などより、この世界の何よりも、お前を」
ナツメは幸せそうに微笑み、俺の首に腕を回した。
「……私も。……もう、どこへも行きません」
窓の外では、夜明けの光が差し込み始めていた。祈り続けた夜は終わり、ここから、二人で歩む新しい鍛錬の日々が始まる。同じ世界で、同じ呼吸を刻みながら。




