26.巡る鼓動、届く祝福
朝、目が覚めた瞬間の静寂が好きだ。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の埃をキラキラと躍らせる。私はベッドの中で一度大きく伸びをし、ゆっくりと、けれど深く腹式呼吸を繰り返す。鼻から吸って、肺の底まで空気を満たし、口から細く長く吐き出す。体内の│中心軸が整い、バラバラだった意識が「夏目結愛」という個体に収束していく。
私は、私。
けれど、時折、鏡を見る自分の瞳の奥に、知らない誰かの残影を感じることがある。それは悲しみではなく、温かな琥珀色の名残のようで。
「……おはよう」
誰にともなく呟き、ベッドから降りる。床を踏みしめる足の裏の感覚。筋肉が重力に抗って身体を支える感触。それらすべてが、私にとっては「誰かから託された奇跡」のような気がしてならないのだ。
九時のオフィスは、無機質な喧騒に包まれていた。キーボードを叩く音は雨音のように降り注ぎ、コピー機の唸りは重低音の│通奏低音となってフロアを支配する。
私は自分のデスクに座り、まずは背筋を正した。椅子に深く腰掛け、坐骨で体重を支える。そんな些細な姿勢の調整が、私の心に「正しさ」をもたらしてくれる。
視線の先には、営業部のエース、風真煉弥の背中があった。彼は今、大きなプロジェクトの資料作成に没頭している。普段は穏やかな彼だが、集中が臨界点を超えると、どうしても肩が内側に入り、呼吸が浅くなる癖がある。
私は給湯室へ向かい、丁寧にコーヒーを淹れた。豆の香りが、灰色のオフィスに鮮やかな色彩を差し込んでいく。
「風真さん」
声をかけると、彼は弾かれたように顔を上げた。眼鏡の奥の瞳が、少しだけ充血している。
「……あぁ、結愛か」
「呼吸、止まってますよ。あと、肩。三センチ下げてください」
私が冗談めかして言うと、彼は「おっと」と苦笑しながら、大きく息を吐き出した。強張っていた彼のフレームが、ふっと柔らかく解ける。
「相変わらずだな、結愛の観察眼は。まるで見透かされている気分だ」
「観察は、私の生存本能みたいなものですから」
差し出したのは、混じりけのないブラックコーヒー。今の彼には、甘さよりも脳を覚醒させるこの苦味が必要だと、その「背中」が語っていた。煉弥はコーヒーを一口啜り、深く息をついた。
「……ありがとう。救われたよ」
彼と過ごすこの時間は、春の湖のように凪いでいる。踏み込みすぎず、けれど突き放さない。互いの個としての領域を尊重し合う、成熟した距離感。
───それなのに。
彼を見つめるたび、私の胸の奥に、小さな波紋が広がる。それは、理由のわからない切なさであり、途方もない懐かしさ。
(……ごめんなさい)
ふいに、自分でも驚くような言葉が脳裏をよぎる。なぜ謝らなければならないのか、私は知らない。ただ、彼の優しさに触れるたび、私の内側に潜む「誰か」が、申し訳なさそうに身を縮めるのだ。
(でも、大丈夫。……安心してください)
私は心の中で、その見えない影にそっと語りかける。煉弥さんは、もう大丈夫。過去の幻影に囚われることなく、今の私を、「夏目結愛」を見て、共に歩き出そうとしてくれている。その想いが通じたのか、胸の奥の疼きは、柔らかな温もりへと形を変えた。
夜。自宅の照明を落とし、私はストレッチマットを敷く。一日の終わりに、ピラティスで身体を整えるのが私の儀式だ。背骨を一節ずつ丁寧に動かしていく「ロールアップ」。重力に逆らい、腹部の中心から力を引き出す。自分の肉体と対話するこの時間は、私にとって最も「私」に戻れる瞬間のはずだった。
けれど、その夜。仰向けになり、深い呼吸を繰り返していた時、意識のフィルターがふわりと外れた。知らない風景が、脳裏に流れ込んでくる。
それは、この東京の街並みとは決定的に違う、重厚な石造りの建築。松明の火が揺れる、熱気と汗と、鋼の匂いがする場所。
───グレン。
一度も聞いたことがないはずの名前が、唇から零れそうになる。白銀の髪。凍てつくような、けれどその奥に烈火のような情熱を秘めた灰色の瞳。触れれば火傷しそうなほど熱い、岩のように強固な胸板。
「……だれ……?」
私は起き上がり、暗闇の中で自分の手を凝視した。この手は、あんなにゴツゴツとした大きな掌に、包まれていた記憶がある。この肩は、あんなに強い腕に、抱きしめられていた実感がある。わかってしまった。
私は、「夏目結愛」という存在は、純粋なオリジナルではない。かつてこの世界にいた「鬼頭夏夢」という女性。彼女が異世界へと魂を移した際、あまりに強すぎた彼女の「現世への慈しみ」と「残された人々への愛」が、残留思念となってこの地に根付いた。
それが新しい生命の形を得たのが、私なのだ。私は、彼女が置いていった「柔らかな優しさ」の器。だから、私は彼女のように「助けてほしい」とは願わない。ただ、「共に歩きたい」と願う。彼女が救えなかった、あの優しい風真煉弥と共に。
一方、その頃。次元の壁の向こう側、ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの朝。ナツメは、グレンと並んで朝のラントレーニングを終えたところだった。二人の呼吸は完璧に同調し、立ち上る汗の蒸気さえも一つに溶け合っている。
「今日のフォーム、非の打ち所がなかった。……筋肉の連動が美しい」
グレンが、無骨な手でナツメの首筋に触れる。その手は、もはや教官としての評価ではなく、愛する女への惜しみない賛辞に満ちていた。
「グレンさんの指導が、私の中に溶け込んでいるからです」
ナツメは微笑み、彼の手のひらに頬を寄せた。この世界を選んだことに、一ミリの後悔もない。共に鍛え、共に高みを目指し、共に果てる。その約束こそが、今の彼女の生命の輝きそのものだった。
───なのに。
ふいに、ナツメの胸が激しく締め付けられた。視界が歪み、何の前触れもなく、熱い涙が頬を伝う。
「……ナツメ? どうした、どこか痛むのか」
グレンが狼狽したように彼女の肩を掴む。ナツメは首を振った。痛みではない。これは、途方もない解放感だ。
(……あぁ、そうか)
時空を越えて、温かな風が吹き抜けた気がした。自分を呼ぶ、もう一人の自分の声。この世界へ来るために、あちらの世界へ置き去りにしてしまった「自分の一部」が、今、最高の幸せの中にいることを知った。
(彼は……煉弥さんは、もう一人じゃないんだ)
確信だった。自分が愛した、あの優しすぎる男。自分では救えなかった、あの止まっていた時間。それを今、新しく生まれ変わった「自分」が、しっかりと抱きしめている。
「ありがとう……」
ナツメは空を見上げ、小さく呟いた。その声は、次元の狭間を通り抜け、現代の日本でマットの上に座る結愛の耳に、確かな羽ばたきとなって届いた。
「理由はわからないんです。でも、グレンさん」
ナツメは、心配そうに見つめるグレンの首に腕を回し、その胸に顔を埋めた。
「私、今、本当の意味で『ナツメ』になれた気がします。……あちらの世界への未練が、今、祝福に変わりました」
グレンは何も聞かなかった。ただ、彼女の華奢な、けれど鍛え抜かれた背中を、壊れ物を扱うように、そして永遠を誓うように強く抱きしめた。
「理由などどうでもいい。お前が笑っているなら、それがこの世界の正解だ」
現代。結愛は、窓を開けて夜の空気を取り込んだ。遠くで都会の喧騒が聞こえる。
(私も、幸せだよ。……ナツメさん)
心の中で、その勇敢な「自分自身」に返事をする。私はあなたの影ではない。けれど、あなたが愛したこの世界を、今度は私が、私の足で歩いていく。
剛と柔。鍛え抜く者と、整える者。別れを選んだ魂と、再会を誓った命。世界は違えど、その根底にある「想い」は同じ鼓動を刻んでいる。
明日、会社に行ったら、風真さんをランチに誘おう。今度は私が、彼の歩幅に合わせて、けれどしっかりと彼をリードして。誰かの幸せを、誰かが静かに祝福している。その連鎖がある限り、筋肉も、恋も、決して枯れることはない。
夜空を見上げる結愛の瞳には、もう迷いはなかった。彼女の背筋は、かつてないほど美しく、真っ直ぐに伸びていた。




