25.残った感覚、続く幸福【エピローグ】
風真煉弥は、パソコンに向けていた視線を天井へと逃がし、凝り固まった肩を回すように腕を伸ばした。長時間の資料作成で、首筋がわずかに張っている。
「……ふぅ」
小さく息を吐いた、その時だった。
「お疲れ様です、風真さん」
珈琲の香りが、オフィスの乾燥した空気を柔らかく塗り替える。振り返ると、営業部の後輩、│夏目結愛が白いカップを差し出していた。
「ブラックですけど、大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう。助かるよ」
煉弥は自然に微笑み、カップを受け取る。温かな陶器の感触が指先に伝わった瞬間、ふっと、胸の奥が説明のつかない疼きに襲われた。
(……この香り。この、距離感)
結愛の横顔を盗み見る。柔らかな表情。控えめな視線。そして、仕事の合間でも相手の体調や呼吸を気遣うような、独特の空気感。
……似ている。
はっきりと思い出せる誰かではない。特定の名前も、声も、この世界の記憶のどこを探しても見当たらないはずの影。
(……なんだ、この感じは)
心臓が、ほんの一拍だけ強く、痛いほどに打った。
「どうかしました? 私の顔に何かついてますか?」
結愛が、不思議そうに首を傾げる。
「いや……」
煉弥は、ゆっくりと首を振った。
「なんでもない。……少し、懐かしい気がしただけだ」
本当に、なんでもないことなのだ。この世界に「鬼頭夏夢」という人物は存在しない。同期にいたことも、事故に遭った記録も記憶もない。彼女が愛用していたはずのアプリも、この世界のストアには並んでいない。
───それでも。
(……何かを、置いてきた気がする)
理由のない欠落感。思い出せないのに、確かに「知っている」という違和感。かつて雨の日に、誰かを守りきれず、誰かに踏み込みきれなかった自分がいなかったか。
煉弥は、珈琲を一口飲み干した。苦みが喉を通り、意識を現実に繋ぎ止める。目の前にいる結愛は、彼がかつて失った「何か」の欠片を持っているのかもしれない。けれど、それはもう悲しい記憶ではなく、新しい幸福の予感としてそこにあった。
「ありがとう、結愛」
そう言って、彼女の手を、ほんの一瞬だけ包むように握る。温かい。今の現実は、この温もりの中にある。
胸の奥に残った“名もなき感覚”は、二度と名前を呼ばれることはない。けれど、それは煉弥の人生に静かな深みを与え、彼が今度こそ「踏み込む」ための、小さな勇気の種となっていた。
一方、その頃。
次元の壁の向こう側、光の差し込むヴァルキュリア・トレーニングアカデミー。
「はい、もう一回! 逃げるな!」
低く、地響きのように響く、けれど愛おしい声。
「ナツメ、腹圧が抜けているぞ。体幹を固めろ!」
「……っ、はい!」
ナツメは歯を食いしばり、重厚なバーベルを担ぎ直した。スクワット。大腿四頭筋が熱く燃え、脊柱に凄まじい圧力がかかる。崩れそうになる一瞬、グレンが迷いなく彼女の背中に大きな掌を添えた。
「今の感覚を、骨に刻め」
「はい……!」
一人では、この重さは支えきれなかった。隣にいるから。引き上げてくれるから。そして何より、彼自身もまた、ナツメに引き上げられることを望んでいるから。
休憩中、会員の一人が、仲睦まじく、かつストイックに指導し合う二人を見て微笑んだ。
「お二人、本当に息がぴったりですね」
「ええ」
グレンが、タオルで汗を拭いながら、隠すこともなく答える。
「二人三脚ですから。……彼女がいなければ、俺の半分は機能しません」
ナツメは、思わず吹き出した。
「大げさですよ、グレンさん」
過去を振り返ることは、もうない。失ったスマホも、前の自分も、すべては今の「ナツメ」になるための必要な│負荷だったのだと笑える。選び抜いた「今」が、ここにある。トレーニングの合間、ナツメはグレンを見上げた。
「……幸せですね、私」
「知ってる」
グレンは、間髪入れずに即答した。
「顔に書いてある。……鏡を見てこい」
ナツメは照れたように視線を逸らし、彼の逞しい腕に自分の手を重ねた。二人で、次のセットへ向かう。
同じ世界で、同じ呼吸で。積み重ねた筋肉は嘘をつかない。そして、地獄を見てでも手放さなかったこの恋も、決して裏切ることはない。
───忘れられてもいい。
───別の場所では、別の名前で呼ばれていてもいい。
それでも、選ばれた想いは、それぞれの世界で今日も静かに、そして力強く拍動し続けている。筋肉と恋の、至高のバルクアップは、これからも続いていく。




