24.同じ世界で、同じ呼吸を
意識が、熱い質量を伴って浮上した。暗闇の底から一気に水面へ引き揚げられたような、強烈な圧迫感。
最初に感じたのは、暴力的なまでの「熱」だった。頬を撫でる無機質な病室の空気ではない。もっと生々しい、誰かの激しい吐息と、震える身体の鼓動。
「……ナツメ……っ」
その声を聞いた瞬間、彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。低く、岩を砕くような荒々しさを持ちながら、今は消え入りそうなほどに脆い、あの声。
「……グレン……さん……」
震える腕を伸ばす。指先が触れたのは、間違いなく、あの硬く、分厚い胸板だった。
点滴のチューブも、白い天井もない。そこにあるのは、松明の火が揺れる、少し埃っぽくて、汗と誇りの匂いがするトレーニングホールの空気だ。
「……夢……じゃ……ない……」
「夢なわけがあるか!!」
グレンが、咆哮に近い声を上げながら、ナツメを押し潰さんばかりの力で抱き締めた。彼の腕の強さ。肋骨が軋むほどの圧力。それは、現実世界の誰にも真似できない、グレン・シルフィードという男の「存在証明」だった。
「一ヶ月だ……」
グレンが、ナツメの肩に顔を埋めたまま、掠れた声で言った。
「お前が崩れ落ちてから、一ヶ月。……心臓は動いているのに、魂がどこか遠くへ消えてしまったかのように、お前は動かなかった」
グレンの身体が、微かに震えている。
「……傲慢な俺は、神に祈ったことなどなかった。……だが、この一ヶ月、俺はお前の手を握り、ただそれだけを繰り返していた」
ナツメは、彼の背中に回した手に力を込めた。そこにあるのは、彼女がかつて鍛え上げ、愛した広背筋の感触だ。│あちらの世界《日本》で、煉弥という「優しすぎる安らぎ」を突き放してまで求めた、この無骨な情熱。
「……ごめんなさい。私……迷っていました。あちらの世界に、私の居場所があるような気がして……。でも、違ったんです」
ナツメは、グレンの顔を両手で包み、強引に自分と視線を合わせた。
「私をナツメにしてくれたのは、あなたです。……あなたがいない世界で、私は、私のままでいられない」
グレンの灰色の瞳が、大きく揺れた。彼は一瞬、絶句し、それから自嘲気味に、けれど愛おしそうに目を細めた。
「……勝手な女だ。……散々心配させやがって」
一呼吸置いて。
「ナツメ。……いや、私のナツメ」
グレンが、改まって彼女の目を見つめた。そこに宿っているのは、厳格な教官の仮面ではない。一人の男としての、剥き出しの独占欲と愛情だった。
「俺はもう、教官という立場に逃げるつもりはない。……お前がいない日々の中で、俺は思い知った。……筋肉は鍛えれば裏切らないが、お前がいなければ、俺は俺自身の筋肉すら愛せない」
深く、覚悟を決めた呼吸。
「お前が好きだ。……対等なパートナーとして。共に高みを目指し、共に汗を流す、生涯の伴侶として」
ナツメの胸が、熱い喜びで震えた。
「……私も……私も大好きです! 守られるだけじゃなくて、貴方を追い越すくらい、強くなりたい」
「……ふん。ならば、覚悟しておけ。一ヶ月のブランクだ。メニューは地獄になるぞ」
グレンが、いつもの不敵な笑みを浮かべた。けれど、その瞳には溢れんばかりの涙が溜まっているのを、ナツメは見逃さなかった。
二人の唇が、自然と重なり合う。
それは、甘いだけの口づけではない。互いの「生」を、魂の「重み」を確認し合うような、確かな契約。世界は、ここからまた動き出す。
翌朝。ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーのメインアリーナには、いつも通りの、けれど決定的に違う二人の姿があった。
「いいか、ナツメ。一セット目から手を抜くな。……腹圧を最大に。……軸をぶらすな!」
「わかってます! ……見ててください!」
並んでバーベルを握る、グレンとナツメ。あちらの世界に残してきた、風真煉弥という名の優しさに、心の中で密かに感謝を告げる。
(煉弥さん、ありがとう。私は、この『地獄』でこそ、本当の意味で笑えるんです)
グレンとナツメの呼吸が、完璧に同調する。沈み込み、踏ん張り、爆発的な力で持ち上げる。全身を駆け巡る血液の熱。千切れそうな筋繊維の咆哮。
「……ふっ、はぁ……っ!」
二人同時に、バーベルを床に下ろす。凄まじい衝撃音。
それと同時に、二人は顔を見合わせ、晴れやかに笑った。
同じ世界で、同じ呼吸を。積み上げた筋肉は、決して裏切らない。
そして、絶望の淵から選び取ったこの恋は、どんな│重量よりも重く、二人を繋ぎ止める絆となった。
ナツメの物語は、ここで終わらない。彼女は今、自分を愛し、自分を導く男の隣で、誰よりも美しく、誰よりも強く、輝き始めたのだから。




