23.やっぱり違う…
雨上がりのビルの屋上は、驚くほど人影がまばらだった。
雲の隙間から差し込む太陽の光が、濡れたアスファルトに反射し、眩いほどに滲んでいる。空気にはまだ湿り気が残っているが、風はどこか冷たく、夏夢の頬を鋭く撫でた。
「……ここで、よかったですか」
風真煉弥が、数歩先で足を止めた。彼は無理に距離を詰めようとはしない。その適度な「余白」が、今の夏夢にはひどく重く感じられた。
「はい。……ありがとうございます」
夏夢は胸の前で、自分の指をきつく組んだ。逃げ場のない静けさ。地上を走る車の音さえも、ここでは遠い世界の出来事のように聞こえる。
「昨日、言ってましたよね」
煉弥が、静かに、けれど逃げない視線を夏夢に向けた。
「本音を、聞きたいって。……僕は、君が抱えている『何か』を、力ずくで暴くつもりはありません。でも、これ以上知らないふりをして隣にいるのは……君を傷つけることになると思ったんだ」
夏夢の心臓が、警鐘を鳴らすように強く打った。
「鬼頭さんは――」
煉弥が一歩、ゆっくりと踏み出した。アスファルトの上の水たまりが、かすかに波紋を描く。
「僕と一緒にいて、安心できてますか?」
嘘はつけなかった。
「……できます。……とても、穏やかで、自分が自分であっていいんだって、そう思えます」
即答だった。それは本心だった。煉弥と一緒にいれば、傷つくことも、限界に絶望することもない。彼はいつだって、夏夢が呼吸しやすいように、そっと風の通り道を作ってくれる人だ。煉弥は少しだけ、悲しそうに目を細めた。
「じゃあ……」
彼はもう一歩、踏み込んできた。二人の間にあった「安全な距離」が消える。煉弥の手がゆっくりと上がり、彼女の頬に触れようとする。
「それ以上は……? 僕は君に、安心だけじゃなくて……もっと、別の熱を。君の瞳が、僕だけを見るような、そんな特別な存在になりたいと思っている。……それは、贅沢な願いですか?」
その手が触れそうになった瞬間。夏夢の脳裏を、稲妻のような衝撃が突き抜けた。
(……違う)
この距離。この温度。それは、あまりにも正解に近い。現実世界における「幸せ」そのものだ。けれど、彼女の細胞の一つ一つが、腹横筋の奥底に眠る魂が、激しく拒絶反応を示していた。
『逃げるな、ナツメ!!』
幻聴でも、記憶の再生でもない。脊髄を駆け上がるような、あの野性的な咆哮。自分を完膚なきまでに追い込み、壊し、そして誰よりも高く引き上げてくれた、あの男の声。夏夢は、震える手で煉弥の掌を拒んだ。
「……ごめんなさい」
目を伏せ、喉を絞り出すように声を出す。
「……やっぱり……違うんです。……違うんです、煉弥さん」
煉弥の動きが、凍りついたように止まった。
「……何が、違うんですか?」
「貴方は、私を大切にしてくれる。守ってくれる。……でも、私は。……私は、壊されてもいいから、あの人と一緒にいたい」
夏夢は顔を上げた。その瞳には、かつて「鬼頭夏夢」が持っていた迷いは微塵もなかった。そこにあるのは、ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーで、泥にまみれ、汗にまみれながらもグレンを見据えていた「ナツメ」の意志だった。
「私は……グレンが。……グレン・シルフィードが、好きなんです。……あの日、あの場所で、私を本気で生かそうとしてくれたあの人じゃなきゃ、私は完成しない!」
その名前を口にした瞬間。世界から、すべての音が消失した。
「……鬼頭、さん……?」
煉弥の声が、遠い霧の向こう側へと遠ざかっていく。彼の表情が、驚愕から、深い納得へ、そして静かな諦念へと変わっていくのが、スローモーションのように見えた。
次の瞬間、足下のアスファルトが眩い光に溶け始めた。重力が消え、空と地面の境界が混ざり合う。
「鬼頭さん!!」
煉弥の手が伸ばされる。けれど、光の激流がそれを阻んだ。夏夢は、消えゆく意識の中で、彼に向かって心からの感謝を込めて微笑んだ。
(ありがとう、煉弥さん。……貴方の優しさがあったから、私は自分の本当の渇望に気づけた)
眩い光が視界を埋め尽くす。内臓が浮き上がるような感覚。三次元の│理が崩壊していく中で、夏夢はただ一つのことを確信していた。
───私は、あの人の元へ戻る。
───引き上げられたい。共に、強くなりたい。
光の渦に呑み込まれながら、彼女の魂は「ナツメ」としての完全な覚醒を遂げていった。




