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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第3章 さようなら、優しいだけの世界【再起編】

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22.近過ぎて越えられない

 雨が、世界の色を濃く塗りつぶしていた。オフィスビルの窓を激しく打つ音は、まるでもう一つの鼓動のように夏夢の耳に響く。定時を過ぎ、閑散とし始めたエレベーターホールで、二人は並んで外の景色を眺めていた。


「今日は、飲み会中止みたいですね。この雨じゃ、みんな直帰ですよ」


 煉弥が、いつもの穏やかなトーンで言った。


「そうみたいですね」


 夏夢の返事は、自分でも驚くほど空虚だった。


 二人きり。


 意図したわけではない。けれど、運命が「答え」を急かしているような、そんな気配が漂っていた。


「……少し、歩きませんか。駅まで、遠回りして」


 煉弥の提案に、夏夢は一瞬、足を止めた。断る理由はいくらでもあった。けれど、彼女は吸い寄せられるように頷いてしまった。


「……はい」


 一本の傘に、二人が入る。雨音が周囲の雑音を遮断し、二人だけの密室を作り出す。湿ったアスファルトの匂いと、煉弥の微かな石鹸の香りが、雨の中に溶け込んでいた。





「最近……」


 煉弥が、前を向いたまま静かに口を開く。


「鬼頭さんといると、すごく落ち着くんです」


 胸が、きゅっと縮む。


「無理に笑わなくていい。無理に相手の領域に踏み込まなくても、ただここにいていいんだって、そう思える。……こんなに穏やかな気持ちになれるのは、初めてかもしれない」


 それは、あまりにも誠実で、透明な告白だった。夏夢は何も言えなかった。彼の言葉は、傷ついた今の自分には最高の癒やしであり、同時に、重すぎる「正義」だった。歩幅が、自然と揃う。信号待ち。傘の下で、二人の肩が触れそうなほどに近づく。


「……鬼頭さん」


 煉弥の声が、少しだけ湿度を帯びて低くなった。


「もし、このまま――」


 言葉の続きを、夏夢は本能的に察してしまった。


(……今は、言わないで。その言葉を受け取れるほど、私は真っ白じゃない)


 煉弥は、夏夢の硬直した横顔を見て、僅かに目元を揺らした。そして、彼は自ら一歩、引いた。


「……やっぱり、急がなくていいですね。僕たちのペースで」


 胸が、強く痛んだ。逃げたのは、彼ではない。自分が、彼の優しさを「逃げ道」として利用し、決定的な一歩を阻んでいるのだ。


「……煉弥さん」


 初めて、苗字ではなく名前で呼んだ。彼が驚いたように、けれど嬉しそうに振り向く。


「私……」


 言葉が喉でつっかえる。


「……ごめんなさい」


 それだけしか、出てこなかった。煉弥は、雨に濡れる紫陽花のような、静かで悲しい微笑みを浮かべた。


「謝らないでください。僕が、踏み込みきれないだけですから」


 その言葉が、鋭いナイフとなって夏夢の胸を抉る。踏み込まないのは、彼の最大の美徳であり、そして今の夏夢にとっては、決定的な「欠落」だった。





 帰宅後。部屋の明かりもつけず、夏夢は冷たいマットの上に座り込んだ。窓の外では、まだ雨が降り続いている。


「……恋人に……なれるはずだったのに」


 優しくて、安全で、自分を壊さない人。現実を生きる女として、それ以上の幸せはないはずだ。


「……違う……」


 小さく、けれどはっきりと呟く。立ち上がり、いつものトレーニングを開始する。雨音に合わせるように、深く、重く、身体を沈める。スクワット。ランジ。プランク。筋肉を酷使するたび、細胞の一つ一つが、あの激しくも愛おしい「痛み」を思い出す。


『まだ、余裕があるぞ。……お前の限界は、そんな程度か?』


 脳裏で、グレンの声が響く。幻だと分かっていても、その声に導かれると、身体の芯から力が湧いてくる。

「……そうだね。……まだ、いけるよ」


 返事をしてしまう。暗闇の中で、一滴の涙がマットに落ちた。


「……私は……」


 息を吐き出す。


「……引き上げられたいんだ。……優しく支えられるだけじゃ、私は私になれない」


 守られるだけの平和は、彼女にとっての「完成」ではなかった。欲しいのは、一緒に地獄を見てでも、高みへと這い上がる覚悟を持った、あの不器用な男の手なのだ。




 翌日。デスクに戻ると、そこには煉弥が立っていた。いつも通りの穏やかな表情。けれど、その瞳の奥には、昨日とは違う決意の光が宿っていた。


「鬼頭さん」

「……はい」

「今度、ちゃんと二人で話せますか」


 逃げない視線。


「白黒つけたいとか、返事を急かしたいとか、そういう意味じゃなくて。……君の、本当の音を聞きたいんです」


 胸が、静かに、けれど激しく揺れる。煉弥は気づいている。自分の隣にいる彼女の心が、ここではない別の場所に囚われていることに。


「……はい。……話しましょう」


 答えてしまった。その瞬間、夏夢の中で何かがカチリと音を立てて嵌まった。


(……次で、終わる)


 これが、彼に対する最後の誠実さだ。そして自分自身が、もう一度「ナツメ」として生きるための、避けては通れない儀式。夏夢は、自分の心が、もう限界という名の臨界点に来ていることを、はっきりと理解していた。

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